村上城 (むらかみじょう) (舞鶴城・本庄城) (国の史跡)
最寄地 新潟県村上市二之町7‐3 2011.7.4 2018.5.27
村上城 (むらかみじょう) (舞鶴城・本庄城) (国の史跡)
最寄地 新潟県村上市二之町7‐3 2011.7.4 2018.5.27
説明案内板
城主居館跡
四ッ門跡
三の丸・調練場跡
二の丸・御鐘門跡
出櫓跡
本丸高石垣
本丸虎口
本丸・天守櫓跡
舞鶴城趾碑
村上城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★ 比高120m】
【感想】 村上市街の東に聳える標高135mの臥牛山に築かれており、山容は遠くからもよく目立つ。南北に3つの曲輪を配置し、前回訪れた時より四ッ門などの石垣が復元されているように感じた。
「坂中門跡」「帯曲輪」などの戦国期の遺構と江戸期の石垣が共存する他に類のない城であり、高度な石工技術により築かれた高石垣が残っている。
本丸天守跡から村上市街が一望でき、三面川と日本海が広がる。
【案内】 村上市役所の東約500mの臥牛山西麓に建つ「㈶村上城跡保存育英会」(表記番地)の北に駐車場がある[マップコード250 493 287*26]。
「村上城跡」の石碑、案内板が建てられ、西側に広い城主居館跡がある。
そこより東に七曲りを登って行くと、四ッ門石垣がある。その北が三の丸跡で、調練場、玉櫓跡、靭(ゆき)櫓跡の石垣が残っている。
四ッ門の南に行くと御鐘門跡を通って二の丸跡、さらに南に行くと標高135mの臥牛山頂上に高石垣の本丸跡がある。
北側に一段低く出櫓石垣、南端に天守櫓石垣があり「舞鶴城趾」碑が建てられている。
平成五年(1993年)6月8日、国の史跡に指定された。
【歴史】 築城年代は十六世紀初頭と推定される。阿賀北の領主、本庄氏によって築城されたとみられている。本庄時長・房長・繁長三代の居城であった。
永禄十一年(1568年)、城主本庄繁長は上杉謙信に反旗を翻した。一年に亘り籠城し、謙信に抵抗した繁長であったが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで講和を受け入れた。
慶長三年(1598年)本庄氏の会津転封に伴なって、堀秀治の家臣・村上頼勝が領主となった、村上頼勝が大改造を加えた。
元和四年(1618年)村上氏が改易となり、徳川譜代の堀直竒(なおより)が十万石で入り、石垣を築くなど近世城郭にした。
慶安二年(1649年)姫路から松平直矩が15万石で入り本格的に築造され三層の天守がその威容を誇っていた。寛文七年(1667年)落雷により天守が焼失し、以後建立されなかった。
享保五年(1723年)内藤弌信(かずのぶ)が初代村上藩主として入城。以降、明治まで、内藤家が藩主となる。
幕末の戊辰戦争では、内藤家の村上藩は親幕府派と新政府派で意見が分かれて分裂状態となり、慶応四年(1868年)、官軍に抗しきれないとみた親幕府派の藩士が山麓居館に火を放って庄内方面へ脱出、庄内藩兵と合流し、新政府軍と羽越国境で交戦した。
明治三年(1870年)新たに成立した「村上県(後に新潟県に合併)」知事となった内藤信美は、焼け残っていた城郭の破却を政府に届出し、受理された。