加地城 (かじじょう) (加治城)
最寄地 新潟県新発田市東宮内441 2016.10.7
加地城 (かじじょう) (加治城)
最寄地 新潟県新発田市東宮内441 2016.10.7
登城ルート
藤戸神社一の鳥居
二郭西の堀切
二郭
土橋・大堀切
虎口
主郭・櫓台
三角点
北側1番目の堀切
北側2番目の堀切
加治城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【案内・感想】 県道60号線より北に入り、田圃の中の参道を行った藤戸神社(表記番地)一の鳥居横に1台分の駐車スペースがある[マップコード157 436 781*60] 。朱鳥居は遠くから目立ち目標にできる。
石段を登って、拝殿右より遊歩道が設けられている。東に登ってゆくと堀切があり、広い二郭がある。その先に大堀切と土橋が残っている。
虎口を経て登ってゆくと、左手に腰郭があり、標高165.6m比高約150mの要害山頂上に主郭がある。主郭の東に櫓台が残っている。また、北の急斜面の先に二重堀切が残っている。
主郭から南に加治川やその支流坂井川などの周辺に広がる田園風景が展望できる。
【歴史】 鎌倉時代初頭、越後守護兼加治荘地頭職の佐々木三郎盛綱により築城された。
以来、室町時代初めに至るまで、越後守護代、伊予・備前守護職佐々木加治氏の本城として隆盛を誇った。
足利将軍家の一族関東上杉氏の越後入封以来、衰微の一途をたどった。
戦国時代、上杉謙信の姉が加治春綱の室となり、再び隆昌の途についた。
天正六年(1578年)謙信の急死の後、天正八年(1580年)暮、一族の五十公野氏の奇襲により落城した。
その後、再建されるも、天正十五年(1587年)九月七日、上杉景勝の攻撃を受け遂に落城した。
慶長二年(1597年)上杉景勝の命で加治氏は断絶、加治城は廃城となった。