松尾山城 (まつおやまじょう) (長亭軒城)
最寄地 岐阜県不破郡関ケ原町松尾383 2017.8.27
松尾山城 (まつおやまじょう) (長亭軒城)
最寄地 岐阜県不破郡関ケ原町松尾383 2017.8.27
登城ルート(緑は南の郭)
駐車場前の道標
三叉路(中間点)の道標
東の削平地
虎口・説明板
四阿・土塁
小早川秀秋陣所古趾の石碑
主郭西側土塁
南郭前の桝形虎口
南の郭
松尾山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高190m】
【感想】 関ヶ原の南方標高293mの松尾山にある。桝形虎口を南に開き主郭の周囲に土塁がよく残っている。
人気のある山らしく、登った時も4名の若者と行き会った。
【案内】 国道21号線より表記番地に向かい、名神高速道路下を抜けて南に行くと駐車場が用意されている[マップコード242 040 771*40](地図)。
駐車場より南に約800mで三叉路に着き、右に約850m行くと松尾山頂上の主郭に着く。
主郭は土塁を巡らし、南側に桝形虎口があり、土橋を経て南の郭に至る。また、200mほど東に郭と思われる平坦地がある。
【歴史】 応永年間(1394~1428年)小守護富島氏が築城した。
永禄十二年(1569年)織田信長に帰属した。
元亀元年(1570年)浅井長政が信長に反旗を翻した際、樋口直房に命じて松尾山城を占拠修築させた。しかし、直房は竹中重治の説得で織田方に寝返った。
天正元年(1573年)織田信長、浅井長政を討伐後、不破光治を警備に当たらせた。不破光治は、後に龍門寺城主となった。
天正四年(1576年)信長が近江安土城へ居を移し、美濃岐阜城に嫡子織田信忠を置いたため境目の城の役目を終え、天正七年(1579年)廃城となった。
慶長五年(1600年)八月、石田三成は大垣城主・伊藤盛正に命じ松尾山城跡を改修し、西軍の総大将毛利輝元を招き入れようとしたが、輝元は出陣しなかった。結果、関ヶ原の合戦前日九月十四日に小早川秀秋が一万五千の兵を率いて松尾山に布陣した。
西軍として入った秀秋は家康に内応しており、合戦が始まり、午前11時ころ三成の狼煙の合図を無視し傍観し、動こうとしなかった。
一方、秀秋の煮え切らない態度にしびれを切らした家康は鉄砲を松尾山に向け放ち威嚇した。
秀秋は遂に意を決し山を下り、大谷吉継の隊へ矛先を向けた。これを見た松尾山山麓の脇坂安治らも寝返り、大谷隊は壊滅し東軍の勝利へ大きく傾いた。
合戦後、小早川秀秋は備前国岡山城55万石の大名となった。