興国寺城 (こうこくじじょう) (根古屋城) (国の史跡)
所在地 静岡県沼津市根古屋 2014.6.13
興国寺城 (こうこくじじょう) (根古屋城) (国の史跡)
所在地 静岡県沼津市根古屋 2014.6.13
二の丸
本丸・西側土塁
穂見神社・土塁
北条早雲碑
天守台石垣
天守台・礎石
本丸北空堀
本丸東土塁
興国寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道22号線「根古屋」交差点より東に60m行き、標識を北に登ると「石火矢台」の曲輪に駐車スペースがある[マップコード 50 187 365*11 ]。
石火矢台の南に土塁がありその南付近が三の丸である。石火矢台の西にコの字状に高い土塁で囲われた本丸があり、南に一段下がって二の丸がある。
本丸には穂見神社が祀られ、その横に「初代城主・北条早雲碑」、「興国寺城主・天野康景碑」の石碑が建てられている。神社の北の土塁高所が天守台で虎口、石垣、建物礎石が残っている。天守台の土塁上の西角に「西櫓台」がある。
本丸土塁の外側に深い大空堀がよく残っている。空堀の北に「北曲輪」が、東に「清水曲輪」がある。北曲輪の北に東海道新幹線の切通しがあり、頻繁に列車が通過している。天守台から北に富士、南に沼津市街や駿河湾が望める。
平成七年(1995年)3月17日、国の史跡に指定された。
【歴史】 正確な築城年は不明だが文明年間(1469~87年)には築城されていたと推定される。
文献上の初出は、『北条五代記』における長享元年(1487年)、室町幕府官僚であり今川氏の客将であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川氏の家督争いでの活躍によりこの城を与えられた。
盛時は、この後再び室町幕府官僚として京を中心に活動していたので、常在はしていない。その後盛時は、明応四年(1495年)管領・細川政元の足利義澄の将軍擁立と連動して伊豆に侵入し、伊豆国を治めていた堀越公方の子、足利茶々丸を将軍足利義澄の母と弟の仇討ちという大義名分で滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移った。
この城のある駿東郡の地は、この後、今川・武田・北条各氏が奪い合うことになった。
天文五年(1536年)、当時北条氏と敵対関係にあった武田信虎(信玄の父)と今川義元が和睦したことに不満をもった北条氏綱が駿東郡に侵出、第一次河東の乱に勝利し主家今川氏から独立し、興国寺城を支配した。
それに対し天文十四年(1545年)今川義元は、武田信玄、上杉憲政らと連合し、駿河と武蔵で同時に北条氏に対して軍事行動を起こした(河越城の戦い、第二次河東の乱)。
北条氏の駿河の拠点・長久保城を包囲して攻撃し、武田氏仲介の和睦によって駿東郡を取り戻した。
その後、天文二十年(1551年)、北条氏康は駿河へ侵入し今川義元から興国寺城を一時奪取するも、義元は再び奪い返した。
永禄十一年(1568年)、今川氏が滅亡し甲相駿三国同盟が破棄されると、武田氏の駿河侵攻に対抗して北条氏政・北条氏邦も駿河に侵出、葛山城などと共に興国寺城を奪回し、垪和(はが)伊予守氏続を城主とした。
元亀二年(1571年)に甲相同盟が再び成立すると、武田氏に城は引き渡され、保坂掃部介、向井正重、曽根正清が城主を務め、天正十年(1582年)まで武田氏が支配した。
武田氏滅亡後に領有した徳川家康は、竹谷松平家の松平清宗を2千貫で配した。天正十八年(1590年)、家康の関東入封後は豊臣秀吉の武将・中村一氏の家臣河毛重次が城主となった。
関ヶ原の戦いの後、慶長六年(1601年)天野康景が1万石で入封するも、慶長十一年(1606年)に起きた家臣の刃傷事件で責めを負い、その裁定に不満を募らせて出奔した。そのため興国寺藩は改易となり、慶長十二年(1607年)三月に廃城となった。