小鷹利城 (こたかりじょう) (黒内城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県飛騨市河合町稲越583 2018.10.7
小鷹利城 (こたかりじょう) (黒内城) (県の史跡)
最寄地 岐阜県飛騨市河合町稲越583 2018.10.7
登城ルート(緑線は車道)
入口と主郭遠景(岩場が目印)
3郭・土塁
2郭・奥に主郭切岸
主郭・説明板
城址碑
北側の郭
4郭間の堀切
4郭北西の堀切
小鷹利城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【感想】 飛騨市河合町稲越と古川町黒内・信包にまたがる標高787.7mの湯峯山上に築かれ、4つの主要郭切岸と堀切などよく残っている。
論洞はと1km付近まで車で行けるが、残り350mは道が雨水で掘られており徒歩が良い。入り口に標識が欲しい所だが、岩場を目印にするとよい。
【案内】 県道75号線の民家(表記番地)先を左折、川を渡ってすぐ右折し西に350m行くと林道入口のY字路に着く[マップコード597 896 794*53](地図)。
林道は1km先まで舗装され、その先は雨で深く掘れているので舗装の終わる付近に駐車する[マップコード597 897 646*42]。
荒れた林道を東へ約350m行くと、左側に芒の平坦地があり、右側に岩場があり目印となる(写真)。
左に下り、岩場を巻き込むように進み、突き当りを左に行くと馬場跡の標柱のある入口に着く。
主郭は東西約16m南北約23mの広さで、説明板・子孫小鷹狩家の追懐の碑が建てられている。南に一段下がって2郭、土塁の残る3郭がある。2郭と西側の帯郭で繋がった北に北郭がある。北郭の北に3段の段郭があり、北端に堀切がある。
また北郭の西側下段に畝状竪堀があり、西に堀切を挟んで、4郭(狼煙台)がある。その北西に堀切が残っている。
昭和三十四年(1959年)11月16日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は定かでないが、応永年間(1394~1428年)以後、参議藤原師言(飛騨国司3代姉小路家綱の子)が国司に任じられ、この地に築城した。城代は小鷹利伊賀守であった。
数十年後、家臣牛丸重親は主君が幼少の為執政を補佐したが、国司家の横領を企てた。
天正五年(1577年)五月、重臣後藤重元・向井右近太夫・小鷹利某等は主君を守って脱走したが、これを知った重親は追手を出し、角川村にて交戦し、重元は戦死し(62歳)、向井・小鷹利等は逃れて幼主は、生母の縁者の常州佐竹家に入り、後向井右近太夫宣政と名乗った。
牛丸重親は天正十一年(1583年)の争乱の中に死亡した。
翌天正十二年正月、広瀬宗城、三木自綱により攻められ、城主牛丸又右衛門は逃げ、越中を経て、越前大野の金森長近の元へ亡命した。
天正十三年(1585年)金森の三木攻めにより、小鷹利城は落城した。『河合村説明板』より。