田中城 (たなかじょう) (亀甲城・亀井城・徳之一色城)
所在地 静岡県藤枝市田中1‐7‐20 2014.6.13
田中城 (たなかじょう) (亀甲城・亀井城・徳之一色城)
所在地 静岡県藤枝市田中1‐7‐20 2014.6.13
下屋敷・移築櫓
本丸跡標柱 ・益津小学校
平島大手一之門跡
三日月堀跡
三之堀跡・土塁跡
大手二之門跡・二之堀
鉄砲矢場跡
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 三重の水堀で同心円状に囲まれた平城であった。中心の本丸跡は西益津小学校(表記番地)の校舎敷地となり、一之堀(内堀)は消滅している[マップコード25 123 279*77] 。
二の丸は住宅地及び南の西益津小学校グランドとなっている。三の丸は本丸西で西益津中学校及び住宅地となっている。
遺構として二之堀の一部と大手二之門跡(地図)は小学校の北西にある。北東方向に三之堀跡・土塁跡・三日月堀跡(地図)及び平島大手一之門跡がある。また、南側の川に面して鉄砲矢場跡がある。
三の堀の一部(地図)は西益津中学校(田中1‐7‐1)の西に50mほど残る。本丸には天守閣はなく二重二階の物見櫓が高さ九尺の石垣の上に建っていたといわれる。
明治四年(1871年)に旗本に払い下げ、移築し住居として利用されてきたが、昭和六十年(1985年)地元の方から寄贈され、史跡田中城下屋敷(田中3‐14‐1)の整備にあわせ移築された。
【歴史】 天文六年(1537年)に駿河国今川氏によって築かれた。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元の敗死により今川氏が弱体化すると、永禄十三年(1570年)の武田信玄により攻め落とされ、武田氏家臣・山県昌景が入城した。三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された。
元亀三年(1572年)山県昌景に替わり、板垣信安が入城した。天正三年(1575年)江尻城城代より移された山県昌満が田中城城代となった。
天正十年(1582年)、徳川勢により攻められ落城した。天正十八年(1590年)の徳川家康の関東移封後は駿府城主・中村一忠の管轄となった。
慶長六年(1601年)、酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った。
酒井忠利は慶長十四年(1609年)に川越城に転出し、以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配された。
なお、元和二年(1616年)一月に徳川家康は田中城に立ち寄り、豪商・茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食した。これが家康の死因とする説がある。
寛永十年(1633年)以後、松平氏、水野氏、北条氏等が封じられた後、享保十五年(1730年)、上野国沼田藩より本多正矩が4万石で封じられ、以降明治維新まで本多氏が城主であった。
明治元年(1868年)、最後の田中藩主・7代本多正訥(まさもり)が安房長尾藩に移封されると、駿河国に転封となった徳川本家(静岡藩)の支配地となり、高橋泥舟が城を預かり、のち廃城となった。