大聖寺城 (だいしょうじじょう) (錦城) (市の史跡)
最寄地 石川県加賀市大聖寺八間道57 2014.10.28
大聖寺城 (だいしょうじじょう) (錦城) (市の史跡)
最寄地 石川県加賀市大聖寺八間道57 2014.10.28
案内板
東丸
鐘が丸の土塁
鐘が丸の土塁
本丸・櫓台
山口玄蕃の碑
二の丸
戸次丸
馬洗い池
大聖寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 錦城小学校(表記番地)グランド西側に「錦城山公園」駐車場がある[マップコード120 187 483*53] (地図)。
標高67mの錦城山麓の西側の低地に芝生広場(大聖寺陣屋跡の西部分)があり、南東より北西にかけて「東丸」、「鐘が丸」、「本丸」、本丸西に「西の丸」、本丸北に「馬洗い池」があり空堀で隔てて「二の丸」、北に草地の「三の丸」、細長い「戸次丸」が配置されている。芝生広場の山側に忠霊塔が建てられている。
東丸登り口に案内板があり、「贋金造りの洞穴」がある。東丸の下段に「下馬屋敷跡」があり、登って行くと「鐘が丸」があり、東西約100m・南北約45mにおよぶ台形で最大の郭であり、西・南側には長さ約70m、高さ3~4m、幅約3mもの巨大な土塁がよく残る。
本丸は周囲を空堀で囲まれ二段になり、東西約45m・南北約17mの広さがあり高さ約4mの鉤形の土塁・櫓台がある。「山口玄蕃頭宗永公之碑」の石碑が建てられている。
二の丸に行く途中の左側下方に、馬洗い池がある。二の丸には四阿、木製腰掛、木製遊具がある。
昭和三十五年(1960年)10月7日、加賀市の文化財(史跡)に指定された。
大聖寺陣屋跡の茶室「江沼神社長流亭」は小堀遠州の設計により宝永六年(1709年)に建てられた数寄屋造りの建築で、昭和九年(1934年)1月30日、国の重要文化財に指定されている。
【歴史】 鎌倉時代に狩野氏によって築かれ、その居城となった。
建武二年(1335年)に中先代の乱に呼応した名越時兼が南下してきた際は、加賀国の国人・狩野一党の各氏が大聖寺城でこれを迎撃したという。
建武四年(1337年)には、新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略した。その後、戦国時代には日谷城などと共に一向一揆の拠点となった。
天文二十四年七月二十三日(1555年8月20日)に越前国の朝倉宗滴(教景)が加賀に侵攻し、南郷城・千束城とともに大聖寺城も一日で陥落させた。なお、『朝倉始末記』はこの時陥落した城を『津葉城』としており、これは城主だった津葉氏にちなんだ大聖寺城の異称とも考えられる。津葉城は大聖寺城の奥の丘陵とみられるが、異名同城といえるほど密接な関係の堡塁である。
永禄十年(1567年)に本庄(現・あわら市)の堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱した際、足利義昭の斡旋により、十二月十五日に一揆方の二城とともに朝倉方の黒谷城、檜屋城(日谷城)、そして大聖寺城の三城を焼払って和議が成立した。
天正三年(1575年)に越前を平定した織田信長の軍勢は加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領した。
信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させ、戸次広正や堀江景忠を配置した。翌年には江沼・能美両郡で一揆が蜂起したが、救援した勝家によって鎮圧された。この際、佐久間盛政が大聖寺城主となっている。
勝家は翌天正五年(1577年)にかけて大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えた。天正八年(1580年)に勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略し、拝郷家嘉を大聖寺城主にした。
天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後は、北ノ庄(現・福井市)の丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城に4万4千石で置かれた。
天正十三年(1585年)に長秀が没した後も秀勝は大聖寺城にとどめられ、江沼郡と能美郡の新領主・堀秀政の与力となった。
その後、慶長三年(1598年)に堀秀政の子・堀秀治が加増され春日山城に移封されると、併せて秀勝も新発田藩に転封された。
これを受けて同年に小早川秀秋が江沼郡の領主となり、家臣の山口宗永を大聖寺城に6万3千石で置いた。翌年に秀秋は再び転封されたが、宗永は当地に残って秀吉の直臣となった。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで山口玄蕃頭宗永は西軍に付いたため、東軍の前田利長に攻められて八月三日(新暦九月十日)に大聖寺城は落城し、宗永は自刃した。その後は前田家の家臣が城代を務めたが、慶長二十年(1615年)の一国一城令により廃城となった。
寛永十六年(1639年)には前田利治が7万石を分けられて大聖寺藩を立て、跡地に藩庁として大聖寺陣屋(現在、山麓の公園と錦城小学校、江沼神社の境内)を設けた。