新発田城 (しばたじょう) (舟形城・菖蒲城)(あやめじょう) (日本100名城31)
所在地 新潟県新発田市大手町6 2011.10.25
新発田城 (しばたじょう) (舟形城・菖蒲城)(あやめじょう) (日本100名城31)
所在地 新潟県新発田市大手町6 2011.10.25
三階櫓
辰巳櫓
二の丸隅櫓
表門
堀・二の丸隅櫓
溝口秀勝公の銅像
新発田城 二の丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道21号線より西へ行った「新発田城址公園」に駐車場が用意されている[マップコード157 429 094*12](地図)。
その北20m位の巾の堀があり、西より三階櫓、二の丸隅櫓、表門、辰巳櫓と並んでいる。
三階櫓を含む北側の敷地大部分は陸上自衛隊駐屯地で、土塀で区切られている。表門と二の丸隅櫓は国の重要文化財である。門を入ると溝口秀勝公の銅像がある。二の丸隅櫓、表門が国の重要文化財に指定されている。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(31番)に選定された。
【歴史】 築城年は不明であるが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏の築城と考えられている。
代々新発田氏の居城であったが、天正九年(1581年)新発田重家が上杉景勝に反乱を起こした。
天正十五年(1587年)景勝により攻められ落城し、新発田氏は滅亡した。その後上杉景勝の会津転封に伴い、慶長二年(1597年)溝口秀勝が尾張国西溝口城より6万石の所領を得て新発田に入封した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川家康から所領を安堵され、秀勝は新発田藩初代藩主となった。拠点として新発田重家の旧城跡に新発田城を築城し、承応三年(1654年)3代宣直のころ完成した。
慶長十五年(1610年)秀勝が没すると、子の宣勝(のぶかつ)が2代藩主となった。
寛文八年(1668年)3代宣直の時、享保四年(1719年)6代直治の時、二度火災の被害が建物にあったが、その都度再建されている。
その後溝口家代々の居城として続き、12代藩主溝口直正の時、幕末を迎えた。慶応四年(1868年)周辺諸藩の圧力でやむなく、奥羽越列藩同盟に加わった。
明治六年(1873年)廃城令により、表門、二の丸隅櫓、石垣を残し破壊された。
平成十六年(2004年)に三階櫓と辰巳櫓が木造復元され辰巳櫓のみ内部公開されている。