千賀地城 (ちがちじょう) (千賀地氏城)
最寄地 三重県伊賀市予野8799 2016.4.23
千賀地城 (ちがちじょう) (千賀地氏城)
最寄地 三重県伊賀市予野8799 2016.4.23
登城ルート
入口の石碑
擁壁・階段
主郭・虎口・土塁
供養塔・土塁
服部半蔵生誕地碑
千賀地氏城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道686号線より県道687号線に入り約60m行くと、左に「千賀地城址入口」の石碑がある(地図)。
民家の間を西に行きすぐ右折すると、擁壁の階段を登る。虎口に、「千賀地城址」の石碑、説明板が建てられている。公園となっている。
土塁が残り、「服部半蔵誕生の地」、「藤堂采女家供養塔」(伊賀上野城家老)、「伊賀乱横死者供養塔」、「服部半蔵故郷塔」の石碑建てられている。
【歴史】 服部家長の流れを汲む服部保長は足利義晴に仕えていたが、当地に移り住み、地名の千賀地氏を称し、城を築いたと言われている。
しかし服部保長の子服部正成(半蔵)は伊賀国を出国、徳川家康に仕え天正十年(1582年)本能寺の変が起こると徳川家康を助け、伊賀山中から四日市に移し、そこから海路で岡崎城へ送った(伊賀越え)。
服部正成は後に与力150騎、伊賀同心300名を支配下に置く旗本8千石となり、江戸城半蔵門に名を残している。
服部正成は慶長元年(1596年)に死去、服部正就(まさなり)が跡を継いだが、家臣の統率を乱し慶長十年(1605年)に失脚した。
また、藤堂藩伊賀上野城代家老・藤堂采女(うねめ)正の生誕地と伝えられる。この城は藤堂采女正の父・藤堂則直の居城であった。
慶長十三年(1608年)藤堂高虎について伊賀、伊勢に入った藤堂采女正の禄高は三千五百石であり、予野には千二百五十石の知行地があって、江戸末期まで上予野村(上出、前出等)には30余名の被官(家来)がこの城を護っていた。