田原城 (たはらじょう) (巴江城)(はこうじょう)
所在地 愛知県田原市田原町巴江11‐1 2014.12.8
田原城 (たはらじょう) (巴江城)(はこうじょう)
所在地 愛知県田原市田原町巴江11‐1 2014.12.8
田原市博物館
二の丸櫓
空堀・石垣
袖池・石垣・桜門
復元桜門
田原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 県道28号線「晩田」交差点の西160mを左折すると、駐車場が用意されている[マップコード311 317 469*46]。
その東に空堀、石垣、井戸があり、本丸に巴江神社、二の丸に田原市博物館(表記番地:月曜休館)が建てられ、二の丸櫓が復元され文化財収蔵庫として利用されている。
その先に出曲輪がある。桜門(櫓門)が復元され、桝池・袖池と呼ばれる水堀、石垣がよく残っている。
二の丸櫓の東に一段低く三の丸に護国神社があり、その裏手に空堀が残る。かって、海が城の周囲に入り込み入江を形成していたため、その状況が巴文に似ていたことから巴江城とも呼ばれている。
【歴史】 文明十二年(1480年)頃、戸田宗光(全久)によって築城され以後67年間、渥美半島支配の拠点となった。
明応八年(1499年)2代憲光、永正六年(1509年)3代政光と続いた。十六世紀になると近隣の戦国大名の拡大に伴って戸田氏は、はじめは松平氏に属し、その後今川氏に転じた。
天文十六年(1547年)、4代戸田康光は、人質として今川氏の本拠地駿河国に送られる松平氏の嫡男竹千代(後の徳川家康。康光は義母の父に当たる)を護送する任を受けるも、寝返って竹千代を今川氏の敵方の織田信長に送ってしまったため、今川義元の怒りを買い、田原城は今川方の攻撃を受けて落城、康光は嫡男堯光と共に戦死した。
その後今川氏に属する城代、天野景貴、朝比奈元智、岡部輝忠が入るが、桶狭間の戦いの後、永禄八年(1565年)今川氏から自立した家康によって攻略され、松平氏譜代の本多広孝が城主に入って、東三河の旗頭として吉田城(豊橋市)を与えられた酒井忠次の指揮下に入った。
さらに天正十八年(1590年)、家康が関東へ移封されると、代わって吉田城に入封した池田照政(のち輝政)の持ち城となり、田原城には重臣筆頭の伊木忠次が城主となって田原に在城した。
輝政の統治期に、石垣の修築や曲輪の整備などが行われたと考えられる。 江戸時代になると、田原城には三河の他の主な城と同様に譜代大名が置かれ、1万石そこそこと少ないながらも藩を形成した。
はじめ田原戸田家の支族、戸田尊次が入り、戸田忠能、戸田忠治と続いた。
その後寛文四年(1664年)に三宅康勝が1万2千石で入封、そのまま三宅氏12代により、明治維新を迎えるまで200年余支配した。
三宅氏は、現在、最高裁判所の別名の三宅坂で名を残す。 廃藩置県後の明治五年(1872年)、他の多くの城と同様に田原城の建築物も取り壊された。