秦梨城 (はだなしじょう)
最寄地 愛知県岡崎市秦梨町神谷7-1 2023.1.15
秦梨城 (はだなしじょう)
最寄地 愛知県岡崎市秦梨町神谷7-1 2023.1.15
説明板
登城ルート
御城趾入口の碑
城跡入口碑(60m手前)
主曲輪虎口・無線塔
主曲輪・無線塔
供養塔(左)・城跡碑(右)
東側の堀切
秦梨城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 乙川左岸に向けて東より伸びた丘陵先端に築かれており、1m程の段差の平坦地に無線塔が建てられている。山側の堀切は深く長大で見応えがある。
【案内】 県道35号線横に御城趾入口の碑があり、東に170m行った民家(表記番地)手前に城跡入口碑が建てられている[マップコード51 705 750*36](地図)。駐車できる場所は少ない。
民家脇を60m程登ると無線塔のある平坦地が城跡で、自然石の供養塔が祀られ、城跡碑と説明板が建てられている。
東側の山側に長大な堀切が残っている。また南方約700mの城山には秦梨城山城がある。
【歴史】 粟生(あおう)師広は鎌倉時代末の嘉元三年(1305年)に三河守護・足利氏の被官として、秦梨子郷の郷司職に任じられた。
築城時期は定かでないが、居館と山城とも戦国時代と考えられている。城主粟尾永信(将監)は駿河国の今川義元に属していたが、弘治二年(1556年)に織田方に属したため、奥平貞勝に攻められたものの、奥平市兵衛・松平彦左衛門らを含む首5つを奪い撃退したとされる。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、粟生永信は駿河に逃れた。
永禄四年(1561年)粟尾永信(将監)は松平軍に城を明け渡し、その後は酒井図書が秦梨城に入城するものの、永禄七年(1564年)松平元康が三河統一を果たすと、必要性は薄れ、廃城になったという。