千見城 (せんみじょう) (市の史跡)
最寄地 長野県大町市美麻26052 2016.11.12
千見城 (せんみじょう) (市の史跡)
最寄地 長野県大町市美麻26052 2016.11.12
登城ルート
登り口・案内板
沢道と橋
道標
北側の岩場
主郭
主郭
説明板
千見城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【感想】 登り口が判らず、古老に聞いたら、旧道の洞門先に登り口があると教えてもらった。果たして案内板が見つかり、うれしくなった。しかし沢の道は細く、じくじくして滑りやすい。
山の斜面を北東方向へ兎に角高い方へ登って、尾根に出た。左に行くと祠があるのみで、尾根が続いているのみで、引き返し先ほどの尾根より右に、急な道を登った。3本の梯子のある岩場を登ると、山頂に出、その下に主郭の削平地があった。
【案内】 県道31号線(大町街道)の「切石トンネル」北側を通る旧道の洞門西に、案内板が建てられ、コンクリートの橋が登り口となっている(裏巡回路)[マップコード382 364 110*06](地図)。
橋を渡り、沢沿いの細い道を登る。アルミの足場板を渡した橋を6ヶ所過ぎると、右に山裾をジグザグに登り、尾根に出る。
尾根を右に登り、3ヶ所の梯子の架けられた岩場を登ると、標高831m比高約230mの山頂に出る。その南に山頂を土塁とした、主郭がある。
主郭には城跡碑、説明板が建てられている。南にも郭がありそうだったが、日没近くとなり、急いで引き返した。
美麻村(現大町市)の史跡になっている。
【歴史】 天文年間(1532~55年)村上義清の命により、小川の大日方氏によって築かれたと云われている。
戦国時代に上杉方と武田方、また上杉方と小笠原方の間で、幾度も争奪戦があった。
天文二十一年(1552年)武田信玄の家臣山県昌景に攻められ、主将大日方長辰は討ち死にし、以後大日方氏は武田氏に服属した。
弘治元年(1555年)武田晴信(信玄)は、地侍大日方主税助に千見城を攻略させた。
天正十一年(1583年)武田氏滅亡後、上杉景勝の領有となり、大日方佐渡守に千見城を守備させた。
翌、天正十二年二月二十九日松本平を掌中にした小笠原貞慶は、安曇郡仁科衆に命じて千見城を攻略させた。貞慶の将沢渡盛忠、渋田見源助が城番となった。
同年四月千見城を奪還した上杉景勝は、須田信正に城番を命じた。
天正十三年(1585年)小笠原貞慶配下の仁科勢に攻略され、景勝はその将小田切左馬助に千見梨窪で仁科勢を討ち取らせた。
翌年六月、千見城を重ねて手中にした貞慶は、二木盛正らに命じ千見城を普請させた。
天正十七年(1589年)貞慶の子貞政は仁科衆の一人である浅野久右衛門を城番とした。
翌、天正十八年豊臣秀吉の命により、信濃に派遣された石川康正の支配下となった。