加納城 (かのうじょう) (国の史跡)
所在地 岐阜県岐阜市加納丸之内 2014.6.14 2014.11.25
加納城 (かのうじょう) (国の史跡)
所在地 岐阜県岐阜市加納丸之内 2014.6.14 2014.11.25
説明板
南東櫓台・石垣・内堀
櫓台上面
本丸跡・土塁
筋鉄門・鉄門跡
北西天守台石垣・内堀
移築二の丸門
加納城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 本丸跡は加納公園(表記番地)として日中(7時半~17時)のみ開放され、北と南に駐車スペースがある[マップコード28 526 436*72] 。
加納城は二重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約600m、東西約300m)であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。
内堀は本丸を取り囲む形で配置され、外堀の位置は、荒田川(東側)、清水川(北側)、長刀堀(西側)、加納中学校付近(南側)とする方形てあった。石垣の外側に、堀跡が確認できる。
本丸は方形を成し、そこから外桝形が突出している。これは初期徳川系城郭の特徴とされており、「加納城型」とも呼ばれている。
主な曲輪として本丸、その北東荒田川の間に二ノ丸(岐阜地方気象台付近)、北に厩曲輪・三ノ丸(加納小学校付近)、南に大藪曲輪がある。本丸に天守台はあったが天守は建てられず、代わりに二ノ丸の東北部に独立式層塔型三重四階の「御三階櫓」が建てられていた。
享保十三年に落雷による大火で焼失し、そのまま廃藩置県を迎える。この城の石垣には、チャート(堆積岩)が使われている。
昭和五十八年(1983年)10月28日に加納城跡として国の史跡に指定された。
結婚式場「EXEX GARDEN」(岐阜市日置江343‐1)裏門に二の丸門が移築されている[マップコード28 429 401*08](地図) 。
【歴史】 文安二年(1445年)に川手城(革手城・南東400m現済美高校内)の備えのため、土岐氏の家宰の斉藤利永によって沓井城として築城された。
明応四年(1495年)船田合戦(美濃守護八代土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦)では利永の子・斉藤妙純(利国)の居城となっていた。しかし、天文七年(1538年)にはすでに廃城となった。
関ヶ原の戦いの結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長六年(1601年)に岐阜城は破却された。そして、都市名は関ヶ原合戦前の「岐阜」から「加納」に改名され、加納藩が成立し徳川家康の義理の息子である奥平信昌が初代藩主となった。
岐阜城の代わりとして翌年七月一日から沓井城の跡に加納城が築城され、九月に奥平信昌が入城した時には本丸、二の丸は完成したようである。
縄張は家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。
加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長七年(1602年)に奥平信政は忠政に家督を譲り隠居した。
その忠政は病弱で、慶長十九年(1614年)忠政が没すると信昌により幼少(6歳)の忠隆が三代藩主となった。信昌は翌年三月死去した。
寛永九年(1632年)に奥平忠隆が嫡子なく嫡子なく死去し、改易され、従兄弟の大久保忠職(ただもと)が武州騎西城より移封され入城した。
その後の寛永十六年(1639年)に戸田光重が入城、三代にわたり城主を務めるが移封され、宝永八年(1711年)に安藤信友の居城となった。
さらに時代が下って宝暦五年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。
明治四年(1871年)、廃藩置県によって加納県の県庁が置かれたが、同年十一月に岐阜県へ合併した。
翌、明治六年(1873年)、廃城令により城は廃城処分となり建物は破却され、城門などは売却された。