宇津山城 (うつやまじょう)
最寄地 静岡県湖西市入出800 2014.6.14
宇津山城 (うつやまじょう)
最寄地 静岡県湖西市入出800 2014.6.14
曲輪・土塁・祠
土塁・説明板
説明板
土塁・石垣・標識
土塁・石垣
宇津山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 浜名湖に突き出した正太寺鼻に位置する宇津山(49.5m)にある。正太寺(表記番地:遠州三十三観音二十五番札所)の敷地内の頂上にあり、墓地に隣接し墓参用の車道が頂上まで通っている[マップコード43 319 281*83]。
墓地の北に曲輪や土塁・石垣、武者走りが残り、頂上から南に浜名湖の絶景が望める。
【歴史】 永正三年(1506年)頃、遠州進出を図った今川氏親が浜名湖西岸に築いた。城主には長池親能、次に小原親高が入り享禄年間(1528~32年)以降は朝比奈泰長が入った。
弘治元年(1555年)に氏泰が病没すると、その嫡男・朝比奈泰長が城主となった。
永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、自立を志す徳川家康が三河国統一に向けて邁進する。徳川方に誼を通じる土豪が多くなる中で、掛川朝比奈氏の分流であった泰長は、惣領家と同様に今川氏への忠誠を貫こうとした。
永禄五年(1562年)、今川氏から徳川氏へ転属・離反した三河国八名郡五本松城を襲うと、駆けつけた西郷正勝の嫡男西郷元正を討ち取っている。城主正勝は五本松城館に火を放って、自害した。
泰長は永禄五年十一月晦日に死去し、その跡を嫡子・孫太郎泰充が継いだ。しかし、泰充は永禄九年(1566年)正月、城中における謡初め会にて、徳川に誼を通じていた弟の孫六郎真次に殺され、そのまま城主の座を奪われた。
しかし、永禄十年(1567年)正月、朝比奈真次も今川氏真の命を受けた小原鎮実(しずざね)に討ち取られた。そして、今川方は、境目城を築き、宇津山城とともに家康の来攻に備えた。
永禄十一年(1568年)十二月、徳川方の酒井忠次は十三日に土豪の佐原重吉、内藤三左衛門、松野三右衛門らと境目城を落としたのち、十五日遠江国に侵攻し、永禄十二年(1569年)宇津山城を守備していた小原鎮実の家老増田団右衛門は城より討って出るが討死し、城主小原鎮実らは城に爆薬を仕掛け浜名湖から逃亡した。しかし、爆薬の量が少なく、酒井勢は爆発音に驚いたが死傷者はでなかった。その後、家康は松平家忠を在番として城郭を拡張させている。
元亀三年(1572年)には松平清善が千貫文を賜って城番に命じられた。廃城になった時期は不明である。