森城 (もりじょう) (仁科城)
所在地 長野県大町市平9675 2014.10.22
森城 (もりじょう) (仁科城)
所在地 長野県大町市平9675 2014.10.22
仁科神社・堀道・右三の丸跡
仁科神社・南側土塁
仁科神社
阿部神社
木崎湖・堀
二の丸跡
木崎湖・阿部渡伝説
機織り淵伝説
森城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 仁科神社(表記番地)境内が本丸となっており、土塁が残る。仁科神社には仁科氏や明治時代以降の戦没者が祀られている。境内の一画には仁科盛遠の顕彰碑や古い塚などが残されている。
本丸の北に一段下がって「阿部神社」が建てられ、仁科氏の祖先とされ大和時代からの古代氏族である阿倍氏が祀られている。
一説によると平安時代後期の前九年の役を戦った安倍貞任、宗任親子が祀られているとも伝えられている。北の阿部神社に行く道の西に二の丸(地図)がある。
車道となっている空堀の南に、三の丸(地図)があり畑になっている。東には木崎湖があり、「阿部渡(あべっと)」、「機織り淵」伝説の看板がある。木崎湖は遊覧貸しボート場などがあり、観光地となっており、湖に映える紅葉が美しい。
【歴史】 平安時代後期には仁科氏が安曇郡一帯の国人領主となり、大町周辺の荘園「仁科荘」や「仁科御厨」を支配していたが、市内の舘之内に舘を築くと、この城は後詰めの城としての役割を果たした。さらに鎌倉時代には天正寺館に移り、大町市街地の原型となる市場町を形成した。
承久三年(1221年)の承久の乱に際し、仁科盛遠は朝廷側に付き鎌倉幕府軍と戦い敗れた。
戦国時代、仁科盛政が甲斐国の武田信玄に切腹させられ仁科氏の嫡流は途絶え、信玄は五男である晴清を仁科五郎盛信と名乗らせ城主に送り込んだ。
信玄は越後国の上杉謙信に対する軍事上の重要拠点として盛信を配置し、城郭を改修させた。
天正十年(1582年)織田信長に攻められた武田勝頼は天目山に追い詰められ自刃した。
武田氏滅亡後に、この地を治めた小笠原貞慶も上杉景勝に対する軍事上の拠点として派兵したと記録されている。廃城の時期は不明である。
【阿部渡伝説】 承久の乱(1221年)の後、北条軍の手に落ちた森城を仁科盛遠の家臣阿部五郎丸貞高が奪い返し、一旦は城主となるものの、木曽義仲遺児義重軍に攻められ落城した。
貞高は対岸へ泳いで落ち延びようとしたが、城内の鶏や犬がその後を追い、泳ぎ着いた岸で敵兵に捕えられ討たれた。村人は阿部貞高が辿り着いた地を阿部渡(あべっと)と呼び祠を建て手厚く霊を祀った。海ノ口駅北の線路と湖岸に祠がある。
その後村人は鶏犬を飼わなくなったと云われ森の鎮守の阿部神社は鳥を嫌い「鳥居」を建てることも止めたと伝えられる。『北安曇郡誌、石沢清著大町ものがたり』。
【機織り淵伝説】 阿部渡で討たれた貞高の妻は、城を出て湖岸を逃げるものの追手に追い詰められ、愛用の機織り機を背負ったまま淵に身を投げてしまう。
以後村人は子の淵を「機織り淵」と呼び、若い妻の死を悼み野の花を淵に投げ供養とした。
貞高と妻の死んだ六月三日は、二人の涙の雪が降ったと云われ、毎年この頃になると淵の底から機を織る音が聞こえると伝えられている。『北安曇郡誌、石沢清著大町ものがたり』。