葛山城 (かつらやまじょう)
最寄地 長野県長野市鑪279 2014.7.16
葛山城 (かつらやまじょう)
最寄地 長野県長野市鑪279 2014.7.16
登城ルート
葛山神社・登り口
尾根の平坦地
北の郭・空堀・土橋
虎口
本丸・四阿
本丸土塁・城跡標柱
葛山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高180m】
【案内】 標高812mの葛山山頂にある。葛山(かつらやま)神社(表記番地:地図)より南東に約600m(比高約180m)登ってゆくと葛山山頂の葛山城本丸跡である。
約200m登ると、鉄塔がある。林道を横切って、南に登り、尾根を南西に行くと、蔵屋敷曲輪、北の郭があり、空堀を経て、虎口・本丸がある。
本丸跡は東西34m南北23mの規模で土塁、祠(葛山神社札)、四阿、城跡標柱が建てられている。西に堀切で隔てて 二の丸を含め、併せて二十四の曲輪を配した大規模な城であった。
本丸の東北の谷は姫谷と呼ばれ、落城時、婦女子が身を投じた所と云われている。
昭和五十六年(1981年)8月17日、長野市指定史跡となっている。
【歴史】 天文二十四年(1555年)、武田晴信に帰順した栗田氏が旭山城に籠城したため、付城として長尾景虎(謙信)が築いた。
弘治三年(1557年)二月十五日、武田氏の大軍により攻略された。真田幸隆の調略により、葛山城中腹の静松寺を通じて落合一族の落合遠江守、落合三郎左衛門尉が寝返った。また、水の手などを切られ武田氏家臣・馬場信春らの攻撃で城は落城し、城将落合治吉(落合備中守)、援軍の将として入城していた小田切駿河守幸長はじめ多くの城兵が戦死した。
葛山衆の多くは武田方に降伏、後、上杉の家臣となって米沢に移住した。籠城戦では水に苦労した城だけあって、米で馬を洗う水に見せかけたという白米伝説が残っている。また、今でも落城の際の焼米が出土するという。