城生城 (じょうのうじょう) (城尾城・蛇尾城)
最寄地 富山県富山市葛原1022 2014.10.23
城生城 (じょうのうじょう) (城尾城・蛇尾城)
最寄地 富山県富山市葛原1022 2014.10.23
登城ルート
入口・説明板・標柱
説明板
北側の郭・櫓跡
北側の郭・空堀
空堀・土橋
本丸・土塁・城跡碑
本丸・城跡碑
大空堀
城生城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道25 号線と神通川の間、岩木砦跡の南西約900mの丘陵に位置する。県道25号線横に案内板があり、本丸ルート入口がある[マップコード288 861 561*02](地図)。駐車スペースは無い。
登って行くと空堀で分けられた広い郭が南北に並び、北に櫓台があり、空堀の北の郭に井戸跡があり、端に「首切り場跡」がある。
戻って南に行くと土橋、虎口、最高所に本丸がある。本丸には鳥瞰図看板および「城生齋藤家城址」の石碑が建てられている。
本丸の西から南にかけて深い大空堀がある。東側に竪堀があり、南に行くと二段の郭を経て大手口がある。
神通川左岸に面する丘陵に築かれた標高約120mの平山城で、神通川との比高差は55mである。北、東、西が急峻な崖となっている。富山市の指定史跡となっている。
【歴史】 越中国婦負(ねい)郡南部を支配した斎藤氏の居城である。
南北朝時代に斎藤左衛門大夫入道常喜が北朝方に属して功を挙げ、足利尊氏より越中国楡原保を与えられた(『仁和寺文書』)のが史料における斎藤氏の初見である。文和年間(北朝暦・1352~56年)頃に築城されたと考えられる。
戦国時代になるとこの地は飛騨勢の北進を防ぐ拠点として、また飛騨越中間の交易の拠点として各勢力より重要視された。
越後国守護代長尾為景の要請に応えて飛騨口を守備したり、また越中国守護代で富山城主神保長職や願海寺城主寺崎盛永、飛騨国人で北進を続けて猿倉城主となっていた塩屋秋貞に攻められたりしている。
天正年間には上杉謙信の配下となっていたが、謙信が死去すると、城生城主斎藤次郎衛門信利は弟の信吉と共に織田信長へ誼を通じ、信吉が上杉方の今泉城を落城させるなど織田方の越中進出に積極的に協力した。
しかし数年後には再び上杉景勝に接近、織田方へ反旗を翻した。天正十一年(1583年)越中国を治めていた佐々成政はこれを攻め、1年余りに及ぶ籠城戦の末、落城した。成政は家臣の佐々与左衛門に1万石を与えて城生城を守備させた。
天正十三年(1585年)富山の役により成政が降伏した後は前田利長の持ち城となり、家臣の青山佐渡守吉次が入った。
吉次が魚津城へと移った後には今石動城代篠島清了が入ったと云われる。慶長年間には廃城となったと思われる。