江尻城 (えじりじょう)
所在地 静岡県静岡市清水区江尻町14−63 2014.6.13
江尻城 (えじりじょう)
所在地 静岡県静岡市清水区江尻町14−63 2014.6.13
説明板
江尻小学校・説明板
二の丸町看板
魚町稲荷神社
魚町稲荷神社由来
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 現在は市街地化により、当時の姿を偲ばせるものは無いが、本丸跡は清水江尻小学校(表記番地)の敷地となっている。
周囲には、大手町、二の丸町など、当時を偲ぶ地名が残っている。 江尻小学校の東側道路(一方通行)に面した職員駐車場に城跡説明板が建てられている[マップコード25 688 061*00] (地図)。
南に穴山梅雪によって創建された魚町稲荷神社があり、その南が大手で、巴川が流れている。
【歴史】 戦国時代駿河国を治めていた今川義元が永禄三年(1560年)尾張国桶狭間で織田信長の奇襲に遭い戦死した後、永禄十一年(1568年)十二月甲斐国の武田信玄は駿河に攻め入りこの地を占領した。
翌、永禄十三年(1570年)信玄は東の北条氏・西の徳川氏に対抗するため蛇行する巴川を利用してこの地に築城した。本丸を中心に三方を囲う輪郭式城郭の平城である。
天正六年(1578年)城将であった穴山信君(梅雪)は、城を大改築して高層の楼閣を建て江尻を城下とする本格的な城となった。この際、魚町稲荷神社を創建した。
天正十年(1582年)三月、西から攻めて来た徳川家康に降伏し、開城した。
武田氏滅亡後は徳川家康の勢力下になり、徳川家康の庇護を受けた穴山信君の嫡男・勝千代(信治)が城代となるが、勝千代の夭折により、慶長六年(1601年)に廃城になった。