平瀬城(本城) (ひらせじょう)
最寄地 長野県松本市島内8333 2015.12.6
平瀬城(本城) (ひらせじょう)
最寄地 長野県松本市島内8333 2015.12.6
登城ルート
駐車場
登り口・説明板
虎口
出郭
主郭・土塁
主郭跡
城跡標柱・鎮魂碑
堀切1
堀切2
平瀬城 本城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【感想】 犀川右岸の、標高716mの尾根先端に築かれ、東西50m南北20mほどの細長い主郭があり、西に一段下がって出郭がある。東尾根に2条の堀切が残っている。
また支城として、北と南向いの尾根に夫々平瀬北城(地図)、平瀬南城(地図)がある。
【案内】 国道19号線より篠ノ井線を潜って、表記番地の先に平瀬城跡の駐車場が用意されている[マップコード158 113 657*04]。
北に行くと二十三夜搭(天保十五年)が建てられ、説明板が建てられている(地図)。
沢伝いに橋を渡って、約500m登った地点より左に登る。虎口を入ると、細長い主郭があり西に土塁、崩れた石垣がありその西に出郭がある。
北側に帯郭が数段あり、東端に「平瀬城跡」碑が建てられ、「鎮魂」と刻まれた慰霊碑がある。その東に15m程下ると2条の堀切がある。
【歴史】 古代以降、この地を領有し統括してきた犬甘(犬養・犬飼)氏の一族平瀬氏は、鎌倉幕府滅亡後に信府に入った。
信濃守護小笠原氏の信任篤く、南北朝争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で、運命を共にしていた。平瀬は小笠原氏にとってその後も最も重要な拠点の一つであった。
おそらく平瀬城は南方の大甘城と共に、林城に前後する室町期に相互必要あって築城されたものと考えられる。平瀬城は北の本城、南の支城から成っている。
天文二十年(1551年)十月二十四日、平瀬八郎左衛門らが守る平瀬城は、武田晴信の侵攻にあい落城した。その際、平瀬方将士204名が討ち死にした。
同年十月二十八日、武田方により城割そして鍬立てがなされた。そして、重臣の一人・原美濃守虎胤を城代とした。『島内史談会説明板』より。