高尾城 (たこうじょう) (富樫城・多胡城・高生城)
最寄地 石川県金沢市高尾町ウ31−1 2014.10.27
高尾城 (たこうじょう) (富樫城・多胡城・高生城)
最寄地 石川県金沢市高尾町ウ31−1 2014.10.27
登り口
切岸
土橋・虎口
高尾城址見晴し台
古城への連絡尾根道
古城跡
古城跡・土塁
高尾城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 県道22号線より東に登った石川県教育センター(表記番地:駐車場あり)[マップコード41 346 472*34] の南東側より南西に登る。
竹林を抜けると堀の先に虎口があり頂上は広い「高尾城址見晴し台」となっており、金沢市街が一望できる。比高70mの見晴し台には腰掛が置かれ、台形案内板が設置されている。
南に尾根道を経て比高約90mの古城跡がある(地図)。倒木や倒竹が多く、放置された状態となっている。
高尾城が築かれている高尾山一帯は、「ジョウヤマ」と呼ばれ付近住民から公園として親しまれている。
【歴史】 詳細な築城年は不明であるが、城主であった富樫氏は、石川郡富樫郷を本拠とした加賀を代表する武士団であり、建武二年(1335年)に加賀国守護となった。
高尾城は、非常時に立て籠もる城砦として利用され、平時は野々市町住吉、扇が丘に在った守護所(富樫館)で政務をとっていたとされる。
富樫政親は弟・幸千代が山名宗全方の西軍に与し敵対したため、家督をめぐって弟と争う羽目となった。文明五年(1473年)に真宗高田派門徒や甲斐敏光と結んだ幸千代に敗れて加賀を追われた。
しかし、翌文明六年(1474年)浄土真宗本願寺派門徒などの援助や加賀国内における武士団の支持を得て、幸千代の籠る虚空蔵城を攻め落とし、幸千代を加賀から追い出し再び当主の座に就いた。
長享二年(1488年)、加賀国守護大名の富樫政親は一向一揆衆徒に攻められ、籠城し、抗戦むなしく自害した場所として有名である。
元亀年間から天正八年の柴田勝家方の侵攻に備え、一向一揆勢が城を修築した可能性が指摘されている。