井波城 (いなみじょう) (瑞泉寺旧地)
所在地 富山県南砺市井波3053 2014.10.24
井波城 (いなみじょう) (瑞泉寺旧地)
所在地 富山県南砺市井波3053 2014.10.24
説明板
二の丸・招魂社
瑞泉寺門
臼浪水
瑞泉寺跡・土塁
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 井波八幡宮(表記番地)の北東の瑞泉寺旧地が本丸跡(地図)である。瑞泉寺門を入ると庭園のある臼浪水(きゅうろうすい)がある。
更に北東、招魂社の社殿が建っている一帯が二の丸跡(地図)であり、説明板が建てられている。
北西の三の丸跡は井波八幡宮宮司の私邸となっている。町の中にあるために破壊された箇所も確認されてはいるが、保存状態は良好である。
特に臼浪水付近の三方を囲む土塁は一見の価値が有る。井波八幡宮の南、土塁上に在る櫓の様な建物は後世に建てられた蚕堂であり、石碑、案内板が建てられている。
城の規模は東西250m、南北230mで、昭和三十年七月南砺市指定文化財(史跡)に指定された。
【歴史】 明徳元年(1390年)、本願寺五世綽如(しゃくにょ)によって瑞泉寺が創建された。
文明十三年(1481年)二月、砺波郡に勢力を誇った越中国福光城主・石黒光義が医王山惣海寺と組んで瑞泉寺率いる一向一揆勢と戦うが敗退(田屋川原の戦い)した。
これによって石黒氏は力を失い、それに代わって瑞泉寺率いる一向一揆勢の影響力が強まった。
文明十六年(1484年)頃、瑞泉寺三代蓮乗(本願寺八世蓮如の次男で土山御坊二代)が周辺の武士団に対する防衛手段として寺を城塞化した。が、この時蓮乗は加賀国二俣本泉寺にて病床にあり、実際は後の四代蓮欽の指揮によるものと思われる。
永禄年間(1558~70年)、瑞泉寺六代証心が上杉謙信と争った。天正三年(1575年)、上杉謙信と和睦した。
この頃には370寺を擁し、礪波郡南部を実質的に支配していた。井波の町も大いに栄え「町屋三千軒」と称されたという。天正五年(1577年)、『上杉家家中名字尽』に瑞泉寺の名が見える。
天正九年(1579年)、瑞泉寺七代顕秀の時、織田信長揮下の佐々成政に攻められて落城し、城下も焼亡した。敗れた一揆勢は五箇山へと逃れた。
成政は配下の前野小兵衛勝長を井波城に配置して守らせ、大改修が施された。阿弥陀堂跡が本丸となり、祖師堂跡が二の丸、太鼓堂跡が三の丸になったと伝えられている。三方を囲む土塁もこの頃に作られたという。
天正十三年(1585年)、富山の役に際し、成政は兵力を集中させる策を採ったため、勝長は戦前に井波城を出て成政の本城である越中国富山城へと退いた。ちなみに勝長は富山城で戦死したという。
成政が降伏した後には前田家の管理下に置かれるも、この時点で既に城としての戦略的価値は無くなっており、時を置かずして廃城となったと思われる。