下番堀江館 (しもばんほりえやかた) (本荘城・今館)
所在地 福井県あわら市下番7-1 2017.8.4
下番堀江館 (しもばんほりえやかた) (本荘城・今館)
所在地 福井県あわら市下番7-1 2017.8.4
本荘小学校
堀江石見を偲ぶ石碑
石塔
西側堀跡
春日神社との間の堀跡
龍雲禅寺山門
龍雲禅寺墓地の五輪塔
下番堀江館跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 遺構というほどでもないが、本荘小学校と東の春日神社との間に浅い窪みがあり、西側に堀跡とも思える用水路が流れている。西側に堀江石見守を偲ぶ歌碑が建てられている。
【案内】 本荘小学校(表記番地)プール西側に堀江石見守を偲ぶ石碑がある[マップコード264 128 412*36] 。石碑には「古の堀江石見のやかた跡 五輪にそゝく雪霰哉」と刻まれている。
堀江氏の菩提寺、龍雲禅寺(あわら市中番9−1)に、堀江氏の五輪塔があるという。
【歴史】 堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、齋藤叙用の流れを汲み、利仁より九世の孫實嗣のとき、地名に因み堀江氏を名乗ったと云われる。
戦国時代、朝倉敏景に従い、永正三年(1506年)の加賀一向一揆宗徒との九頭竜川の合戦には堀江景実が参陣している。その後、堀江氏は本拠を下蕃村の下番堀江館へと移した。
永禄十年(1567年)景実が一揆と結託して謀反を企てているとの噂が流れ、朝倉義景は激怒し、合戦が起き、景実は父・景忠と共に応戦した。のち大和田真孝の仲裁で合戦は収束し、堀江父子は能登へ退去した
朝倉氏滅亡後、天正三年(1575年)に堀江藤秀(景忠を改名)は加賀一向一揆と共に越前に舞い戻り、杉津砦の守将をまかされるが、織田勢に寝返り、一揆勢を壊滅させた。
織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えた。しかし、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り翌年四月に誅殺されたという。