獅子吼城 (ししくじょう) (江草城)
最寄地 山梨県北杜市須玉町江草7772 2015.9.12
獅子吼城 (ししくじょう) (江草城)
最寄地 山梨県北杜市須玉町江草7772 2015.9.12
登城ルート
登り口・説明板
竪堀
横堀
帯郭石垣
主郭跡・石壇
主郭跡・説明板
帯郭
獅子吼城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 県道23号線「増冨ラジウムライン」の見性寺(表記番地)に向かう手前に「獅子吼城と大ケヤキ→」の標識がある。
塩川に架かる橋を渡ると「←獅子吼城跡」の標識があり左に1.3㎞登り「獅子吼城跡→」の標識に従い右折すると、間もなく道路擁壁手前に入り口[マップコード167 836 765*84 ](地図)があり説明板が建てられている。50m先左に1台分の駐車スペースがある。
入り口より西に100mほど行くと竪堀と堀切があり、右にゆくと空堀がある。その先の虎口を左に下ると、曲輪がありその手前に一段低く、石垣の前に石像などが安置されている。虎口より空堀を伝って西に行き登ると、2、3段の帯郭があり、崩れた石垣が残っている。
上段に帯郭があり、標高788.8m比高約30mの山頂に土塁が一部残る主郭跡がある。主郭跡は約20m四方の広さがあり、石垣の壇上に祠が置かれ、説明板が建てられ、四角形煙突状の烽火台が復元されている。
西に帯郭の端があり、南へ続いている。全体に崩れた石が散乱している。
【歴史】 平安時代、馬産地であったこの地方に朝廷の直轄の牧が設置され、それを統括する牧監がおかれた場所ともいわれる。そして塩川対岸の斑山には金山があったり、又江戸時代には関所が置かれるなど、古来より重要な位置にある。
「見性寺」の寺記に、鎌倉時代末期の元応二年(1320年)五月四日夜、この城で信田小右衛門実正・小太郎実高父子とその家来が討ち死にしたと記されている。
又、武田系譜に応永年間(1394~1428年)武田信満の三男江草兵庫助信泰が居城したと云われ、見性寺には信泰の位牌と木像が安置されている。
『高白斎記』には、永正六年(1509年)小尾弥十郎がこの城を乗っ取った事が記されている。武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」等と連携し、甲信国境の信州峠に続いている。
天正十年壬午(1582年)三月、新羅三郎義光以来の名門武田氏が織田信長により滅亡した。その信長が六月、明智光秀により本能寺の変で倒れると、甲斐の国は小田原の北条氏直と徳川家康との係争の地となった(天正壬午の乱)。
家康は韮崎の新府城に布陣し、北条氏直は若神子城に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城に兵を配置した。九月初旬、津金衆・小尾衆など武田の遺臣たちと服部半蔵率いる伊賀組とがこの城に夜襲をかけ落城させた。この戦いは家康の勝利が決定的なものとなっただけでなく、甲州における戦国時代最後の合戦であった。『須玉町教育委員会説明板』より。