鳴海城 (なるみじょう) (根古屋城)
所在地 愛知県名古屋市緑区鳴海町本町18‐3 2014.12.11
鳴海城 (なるみじょう) (根古屋城)
所在地 愛知県名古屋市緑区鳴海町本町18‐3 2014.12.11
鳴海城跡公園碑
鳴海城跡公園
公園南東
天神社
城址碑・説明板
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 三菱東京UFJ銀行鳴海支店(表記番地)の北、天神社の高台が本丸とされ、由来の刻まれた「鳴海城址之碑」の石碑(昭和十八年十一月建之)、「史蹟鳴海城阯」の石碑、由来説明板が建てられている[マップコード17 879 314*74] (地図)。
神社の西側50mに「城跡公園」がある。はっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺には空堀や土塁状の地形が認められる。
『尾張志』によると「東西七十五間半、南北三十四間で四面に堀、二・三之丸に堀を残す」と記されている。
東西に長い城域で、現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社のある東の高台あたりといわれる。公園北側にある東福院(鳴海町花井町3)に、鳴海城の廃材で造られたという門がある。
【歴史】 室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。その際にこの地にあった鳴海神社は北の乙子山に移された。宗範の死後、廃城になったといわれる。
天文年間には尾張国の織田信秀(信長の父)の支配下にあり、配下である山口教継(のりつぐ)が駿河国今川義元に備えるべく城主を務めていた。
しかし信秀が没すると、その子・信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉(のりよし)に鳴海城を任せた。
天文二十二年(1553年)、信長は八百の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。やがて教継父子は今川義元により切腹に追い込まれた(信長の計略によるともいわれる)。
義元はいつ寝返るかわからない外様の山口氏から今川家譜代の岡部五郎兵衛元信(長教)に城主を変更し、今川家直轄の重要拠点になった。
これに対抗すべく、信長は永禄二年(1559年)頃に鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。
永禄三年(1560年)に桶狭間の戦いが起こり、今川軍はまず大高城に付属する織田方拠点の各砦の攻略を敢行し、残りの鳴海城に付属する三砦の攻略を残すのみとなり作戦は順調かにみえたが、作戦総司令部である今川義元本陣が織田本隊の強襲により総大将義元が討ち取られ、総崩れとなってしまった。
しかしあくまで本隊が敗北したのみであったので、砦攻略のため待機中であった鳴海城兵はかなりの兵数を温存していた。信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。
戦後、佐久間信盛・信栄(正勝)父子が城主をつとめ、天正十八年(1590年)に廃城になったと伝えられる。現在でも彼の名にちなんだといわれる「作町(さくまち)」という地名が城下に残っている。