白鳥城 (しらとりじょう)
最寄地 富山県富山市呉羽町21 2013.7.9 2014.10.5
白鳥城 (しらとりじょう)
最寄地 富山県富山市呉羽町21 2013.7.9 2014.10.5
登城ルート
白鳥城址碑
東出丸跡
三の丸東の空堀
三の丸跡
二の丸跡
北二の丸跡
縄張り図
本丸跡
西一の丸跡
白鳥城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 富山城の西約4㎞の呉羽丘陵の標高145.1mの山頂に築かれている。
「FMとやま呉羽送信所」(表記番地)の道路反対側に駐車場があり、展望台、「白鳥城址」の石碑(昭和61年11月)が建てられている[マップコード40 410 368*00](地図)。
西に階段を登ると「東出丸跡」があり下って少し行くと空堀があり、登ると狭い三の丸跡がある。
三の丸跡の西に二の丸跡がある。本丸下の空堀の横に井戸が残っている。標高約145mの城山頂上の本丸には土塁が残り、案内板、平面図看板や「天測点」があり、一段高く天守台跡がある。本丸から東方に富山の市街が良く眺望できる。東は急崖であるが、西は緩斜面であり「呉羽ハイツ(宿泊施設)」などが建っている。
本丸の北に本丸外郭、空堀、北の丸跡、北二の丸跡がある。本丸の南西に西一の丸跡、空堀、西二の丸跡がある。
【歴史】 寿永二年(1183年)木曽義仲が平家を討つため西上した際に、義仲への防備として平家の武将斉藤兵部大輔によって築城されたと伝えられる『城址碑裏面』。
一説には木曽義仲の武将・今井四郎兼平の築城と伝えられる。 その後桃井氏の居城となった。
越中守護代・神保長職(じんぼうながもと)が上杉謙信の越中攻めに対する備えとして、富山城の詰の城として利用された。
永禄三年(1560年)神保氏の降伏で上杉謙信方のものとなったが、元亀三年(1572年)西から攻める一向一揆勢により落城した。
謙信の死後、越中が織田信長の支配に入ると、佐々成政が富山城に入り白鳥城は引き続きその支城となった。
天正十三年(1585年)豊富秀吉が成政を攻める際、先遣隊の織田信雄(のぶかつ・信長の次男)が陣を敷いたとされる。
佐々成政の降伏後、前田利家が領し、家臣に守らせ慶長年間まで続いた。