葛尾城 (かつらおじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県埴科郡坂城町坂城1260 2014.7.15
葛尾城 (かつらおじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県埴科郡坂城町坂城1260 2014.7.15
登城ルート
南側遠景(中央葛尾城・左姫城)
満泉寺
遊歩道標識
葛尾城遊歩道標識(右へ)
北側堀切
主郭跡・土塁・祠
城跡碑
2郭跡
葛尾城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高350m】
【感想】 五里ヶ峯(標高1094m)より南に続く尾根上の、標高805mの山頂に築かれている。
主郭は南北に細長く、南西側に堀切がよく残っており、2段の郭が見られる。北尾根に4条ほどの堀切が残っている。
【案内】 坂城神社の参道南側に駐車できる[マップコード177 472 780*48]。
少し歩いて、神社の北東裏に城跡碑があり、西100mの右手に登山口がある(地図)。
登山道は中腹に差し掛かると、砂状の斜面があり滑りやすく杖があった方が良い。
主郭には北に土塁があり、城跡碑、祠、四阿が建てられ、その天井に説明看板が掲示されている。北に帯郭、堀切があり、南に堀切、二の郭、三の郭がある。
尾根伝いに600m南に下った標高646mの尾根先端に出城の姫城 がある。
昭和四十九年(1974年)1月17日、長野県の史跡に指定された。
南東麓の満泉寺(坂城町坂城1148)は村上氏代々の菩提寺で、居館跡と云われている。
【歴史】 戦国時代、北信濃で最大の勢力を誇った村上氏の居城であった。近辺に氏族の支城や砦があった。姫城もその一つである。
天文年間、小県郡の村上義清は甲斐国の武田晴信(信玄)が開始した信濃侵攻に対抗し、上田原の戦いと砥石崩れ(砥石城の戦い)と二度もの南面からの武田軍の攻撃を破った。
しかし、天文二十二年(1553年)葛尾城は村上氏の背部を支える北に位置する支族の屋代氏や雨宮氏、塩崎氏らが武田方の真田幸隆らの調略により離反し、背後の戸倉方面からの攻撃を受けたことによって自落した。
義清は、それまで仇敵の間柄であった高梨氏の仲介を得て越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びた。これが十二年にわたり五度に及ぶ川中島の戦いの引き金になった。
この年は葛尾城の裾を洗う千曲川に大洪水(江戸時代には六十四回の洪水が記録され四~五年に一回の割合で被災していた勘定)があったと伝えられるが、戦況にどのような影響があったかは不明である。
半月後には救援を得て奪還するが、再びこの城の主として返り咲くことはなかった。そして地域の大半の武士は大勢になびいて村上氏から武田氏へ、武田氏から再び村上方へ、またもや武田方へそして上杉方へと主を変えることになった。
村上義清は上杉氏から永禄八年(1565年)に姫川流域の信越国境を警備する根知城を宛がわれ山浦氏を名乗った。
元亀四年(1573年)一月一日、山浦義清は根知城で病死した(享年七十三)。
慶長五年(1600年)関ヶ原へ進軍中の徳川秀忠が途中の小諸城を拠点にして上田城への攻撃を加えたが撃退された。その後も徳川方の海津城将森忠政は葛尾城代井戸宇右衛門配下の兵を葛尾城や地蔵峠付近に置いて上田城の動きを監視させていた。
これに対して上田城から九月十八日と二十三日の二度に亘って真田信繁(幸村)が出撃して夜討と朝駆けの攻撃を加えた。記録に残るこの城の最後の戦闘とされている。
それまでの間にも村上氏による、この城の奪回戦や真田氏による上田築城への上杉景勝による牽制の拠点でもあった筈だが、それらの際にこの城がどのように使用され改修されたのか、どのような戦況であったかを示す記録は確かめられていない。
平時の居館跡は、現在は満泉寺が建立されている。村上義清の子・村上国清(山浦景国)が天正十年(1582年)、上杉景勝領有の時代、海津城の城代を務めたときに建立した。また城下には村上義清の墓がある。