蟹江城 (かにえじょう)
最寄地 愛知県海部郡蟹江町城1丁目214 2019.6.21
蟹江城 (かにえじょう)
最寄地 愛知県海部郡蟹江町城1丁目214 2019.6.21
産業文化会館
蟹江城址公園
蟹江城址碑
説明板
カワラケツメイ植栽
蟹江城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 蟹江川の東に位置し、「蟹江町産業文化会館」の横に堀跡のような水路があるが、住宅地の間の幅10m位の公園に城址碑があるのみで、遺構は見られない。
城址碑の後ろに、蟹江合戦で兵士が「腹が減っては、戦は出来ぬ」と、茶粥にして食べたというカワラケツメイが育てられていた。
【案内】 「蟹江町産業文化会館」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード4 185 096*77]。
「蟹江町産業文化会館」の南に隣接して「歴史民俗資料館」があり、南西へ住宅地の間を歩くと「蟹江城址公園」があり、蟹江城址碑が建てられている。
【歴史】 永享年間(1429~41年)、北条時任が城塞を築いたのが始まりと云われる。
本丸、二の丸、三の丸があり、大野、下市場、前田の三つの支城があったという。
弘治元年(1555年)、今川方の松平広忠によって攻略された(蟹江七本槍)。
永禄十年(1567年)、服部友貞の資金により、織田家家臣滝川一益によって再構築され、その後の織田信長の北伊勢進攻(1568~70年)、長島一向一揆(1570~74年)鎮圧の拠点となった。
天正十一年(1583年)、滝川一益は賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に敗れ、織田信雄の家臣・佐久間信栄が城主となった。
天正十二年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおける蟹江城合戦では秀吉方となった滝川一益に攻略されるも、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、半月後に落城した。
天正十三年(1585年)、天正地震により壊滅した。