須坂陣屋 (すざかじんや)
所在地 長野県須坂市須坂757 2015.9.6
須坂陣屋 (すざかじんや)
所在地 長野県須坂市須坂757 2015.9.6
奥田神社
時の鐘
館跡説明板
旧須坂町役場跡地碑
須坂小学校北石垣
移築門
須坂陣屋跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 陣屋は奥田神社(表記番地)を中心に東隣の須坂小学校や須坂東高校前の通りまでを占めていた。
天明二年(1782年)8代藩主堀直郷により造られた「時の鐘」が、境内に移築され、館跡説明板が建てられている。また「旧須坂町役場跡地」の石碑が建てられている。須坂小学校の西側に石垣が残っている。
約100m西の遠藤酒造場(須坂市須坂29)に須坂藩大手脇奥付門が移築されている。
【歴史】 元和三年(1617年)、須坂藩1万石2代藩主堀直升によって館が築かれた。
14代藩主堀直明の時、版籍奉還の後、東京鎮台の所轄となり、明治五年(1872年)廃城となった。現在当時の面影を残すものは須坂小学校北側の石垣だけとなっている。『須坂市教育委員会説明板』
奥田神社の祭神は直重大明神・直虎大明神の二柱である。由緒には以下のように記されている(一部判読難あり)。
初代須坂藩主堀直重公は慶長元年(1596年)14歳、初めて徳川秀忠に出仕、同五年上杉景勝討伐、従軍の功によって下総国香取郡矢作(千葉県佐原市)2千石を賜った。慶長十五年(1610年)信州高井郡の内に加増あって8千石となった。
慶長十九年(1614年)大阪冬の陣、元和元年(1615年)大阪夏の陣にていずれも抜群の殊勲あって凱旋した。4050石加増されて、信州須坂13ヶ村及び下総国矢作の地、総計12050石余を賜った。
元和元年に領内初巡視並びに陣屋築造の為入国、普願寺に仮陣屋を設け、家臣を留めて矢作に帰り、元和三年(1617年)六月、下総国に於いて病没した。墓所は佐原市香取町新福寺にある。
13代藩主堀直虎公は文久元年(1861年)十月、26歳の時兄、直蔵の後をうけて封を継いだ。
時に、河野、野口等の権臣跋扈して領内疲弊の極みに達す。茲に於いて家督するや大英断を以て、野口等40余名を追放して藩政を改革し、又、人民の貧者を救うため1年間の納税を免除し、拝借金全部を恵与するなど仁政を施した。又、直虎公は夙に洋学に志し、旧来の兵制の恃むに足らざるを察して、銃器や洋服を購入した。
慶応三年(1867年)32歳の若さをもって幕府の要職若年寄兼外国聰奉行の要職につき藩政に参与した。
幕末に際し、尊皇攘夷開国の世論が沸騰し、議論が定まらず騒然たる国情の中にあって、公は毅然として尊皇の大義により、将軍徳川慶喜に断乎恭順の意をすすめたるに、その義は容れるところとならず、遂に公は憤然として、江戸城に於て自刃し、赤誠を表明、以て、維新開花の礎石となった。
時に慶応四年(1868年)八月十七日であった。直虎公の墓は赤坂の種徳寺にあり、臥竜山に霊廟が建てられている。『奥田神社由緒』より。