小野城 (おのじょう) (本城山城)
最寄地 岐阜県関市西神野1440−1 2014.11.24
小野城 (おのじょう) (本城山城)
最寄地 岐阜県関市西神野1440−1 2014.11.24
登城ルート
遠景・登山口手前
登り口
椿回廊入口
四・三の曲輪
二の曲輪
主郭北の石積
主郭跡
説明板
小野城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高290m】
【案内・感想】 八神集落センター(表記番地)の先に登山者駐車場が用意されている[マップコード70 730 274*65]。
その向かいの御堂の横の畦道を北に約70m行くと、簡単な標識があり、八神コース登山口がある(地図)
標識には頂上まで60分、歩数3270歩(約2200m)と記されている。西の尾根に取り付き、比高約290m(標高423m)の本城山(栃洞山)へ登る。
CDに書かれた標識が要所の木に下げられ迷うことはない。中間点はやや開け、「椿回廊」を登り、東の尾根に出て左に行くと、広い曲輪があり直登コースを登ると段々に三、四の曲輪があり主郭下の曲輪の北に井戸跡、石垣が残る。
頂上の主郭には虎口付近に巨石があり、手製の由来説明板が張りつけられている。その先は細長い曲輪となっている。
頂上からは北西2㎞余の古城山(鉈尾山城)が望める。山頂東側一帯には、相当数の曲輪が残り、城の規模は大きい。
【歴史】 小野城は大永年間(1521~28年)前後、美濃国守護・斎藤氏が築いた城であり、規模から判断して、存在価値の高い城郭であった。
その後、小野山合戦の後廃城になったと伝わる。美濃守護斎藤氏と、斎藤道三の後斎藤氏の闘争の関わりが指摘されているが定かではない。
『本丸の巨岩に張られた由来書』は以下の通りである。<『新撰美濃志』の小野村の項に「古城址、村の北にあり、城主斎藤八郎左衛門宗久なり、古人の伝えに天文二十三年(1554年)落城の後廃れたるよし言へり」とある。なお江戸初期の貞享三年(1686年)、有知村(現在の美濃市)と小野村(現在の関市)が栃洞山の境界を争った訴状中に、「とちぼち山は大山といい、西神野村(現在の関市)地頭斎藤宗祐様の居城にこれあり、今も櫓跡がこれあり候、城破却以来今に至る 云々」とあり宗祐は宗久のことであろう。