長閑屋敷 (ちょうかんやしき) (長坂氏屋敷・釣閑屋敷)
最寄地 山梨県北杜市長坂町渋沢722−116 2019.8.10
長閑屋敷 (ちょうかんやしき) (長坂氏屋敷・釣閑屋敷)
最寄地 山梨県北杜市長坂町渋沢722−116 2019.8.10
登城ルート(緑線は車道)
北西側遠景
登り口
草地を右へ(手前は民家方向)
南西側空堀
主郭・南西側土塁
南東側空堀
長閑屋敷跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高10m】
【感想】 七里岩と谷を挟んだ東の台地先端部にあり、南東と南西側に土塁、空堀が残っている。
とはいうものの屋敷跡は笹や草が茂り放置された状態で、撮影もままならなかった。登り口のY字付近に以前は案内板があったというが、現在は撤去されている。
【案内】 県道17号線「七里岩ライン」の「長坂下条」交差点の約300m先を右折し北に約300m行き、右に曲がると台地下に着く[マップコード167 825 317*17](地図)。
そこより南のY字路を左に登った所から左の草地へ向かう。直進すると南の民家(表記番地)へ通じている。
草地を掻き分けて北東方向へ30m程行くと、鬱蒼とした藪の中に屋敷跡の土塁、浅い空堀が見られる。
【歴史】 長坂氏は甲斐源氏武田氏の支流栗原氏の分流と云われ、武田氏の家老長坂長閑斎光堅の居館跡とされる。光堅は永正十年(1513年)に生誕したとされる。
天正三年(1575年)の長篠の戦いにおいて、信玄以来の家臣である山県昌景、内藤昌豊、馬場信春ら宿老たちが敵の陣城・予想外の大兵力を理由に撤退を進言したものを、長閑斎は攻撃するように進言して武田軍惨敗の原因を作ったという。
天正十年(1582年)三月の織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)に際して、長閑斎は甲府に残留して、子息の昌国とともに織田氏に捕縛され、処刑されている。