東条城 (とうじょうじょう)
所在地 愛知県西尾市吉良町駮馬城山45 2014.12.9
東条城 (とうじょうじょう)
所在地 愛知県西尾市吉良町駮馬城山45 2014.12.9
登城ルート
県道東の城跡碑
二の丸・八幡社
三の丸・本丸土塁
本丸・櫓門
城址碑
東条城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道318号線の東に「東条城跡」の石碑があり、西側に入口がある[マップコード196 896 787*11]。
近くに駐車し、冠木門を通って登ると、左手の本丸の下に曲輪がある。
右手に八幡社(表記番地)が建つ台地二の丸があり、土塁が残る。その西に一段低く三の丸があり、「東条城の歴史」説明板が建てられている。
南に登ると土塁・虎口があり櫓門、模擬櫓、柵列が復元されている。本丸東北隅に「隅櫓跡」があり、北西に「東條城址」の石碑が建てられている。
【歴史】 築城年代は不明。貞応元年(1222年)頃に、足利義氏が三河守護・吉良荘地頭田なり、三男吉良義継は吉良荘を譲られ、東条吉良氏の祖となった。
以後、14代義昭に至って滅ぶまで、吉良氏は足利一門として栄え、東条の地は三百余年、足利・吉良氏の三河・遠江支配の重要拠点であった。
南北朝時代、4代貞家は奥州管領として東国に赴いた。その後裔が関東吉良氏である。
室町時代、応仁の乱では、10代義藤は山名宗全に味方し、細川方の西条(西尾)吉良氏と骨肉相争う悲劇を味わった。
12代持広は、松平清康の妹を娶り、清康が尾張守山で暗殺されると、清康の遺児仙千代(家康の父・広忠)の親代わりとなり、松平家の危機を救った。徳川家康は、桶狭間の合戦後織田信長と結び、吉良・今川氏と戦い、永禄四年(1561年)東条城を攻め、十四代義昭は降伏、東条吉良家は滅亡した。しかし、天下を掌握した家康は、13代義安の子・義定を旗本に取り立て吉良家を再興した。これが江戸時代の高家吉良家の始まりである。
落城後の東条城には青野松平家忠が入り、東条松平家が成立した。家忠の伯父松井忠次はこれを補佐して武功を挙げ、遠江牧野城代、駿河三枚橋城主となり、松平姓を与えられ周防守康親と名乗った。康親は天正十一年没したが、子孫は多く幕府の要職についた。
天正九年(1581年)城主松平家忠(甚太郎)が無嗣で病没し、家康の四男・松平忠吉が家忠養子となるが東条城には入らず、翌天正十年(1582年)には忠吉が駿河国沼津城主となった。
天正十八年(1590年)家康の関東移封後、東条城は廃城となった。
松平忠吉は、関ヶ原の戦いの後、清洲城主となったが、慶長十二年(1607年)没し、後嗣なく東条松平家は断絶した。