丸岡城 (まるおかじょう) (霞ヶ城) (日本100名城36)
所在地 福井県坂井市丸岡町霞町4丁目12 2011.6.6 2013.6.16
丸岡城 (まるおかじょう) (霞ヶ城) (日本100名城36)
所在地 福井県坂井市丸岡町霞町4丁目12 2011.6.6 2013.6.16
三の丸跡
歴史民俗資料館
本丸石垣
現存天守東側
天守北側
南側石垣
丸岡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内】 現存十二天守の一つで望楼型二重三階天守は国宝に指定されている。天守台の石垣、本丸石垣が残っている。
昭和二十三年の福井大地震で倒壊したが、昭和三十年組直し修復された。
北側道路に面して駐車場が用意されている[マップコード63 828 876*43]。 本丸には「丸岡歴史民俗資料館」(表記番地)より登ったところが「不明門(あかずのもん)」跡で、その北に「牛ヶ島石棺」が展示され、人柱「お静慰霊碑」があり、句碑「一廻りして元の坐の花見かな(五浪)・汗引いて山河やうやくふるさとぞ(爽雨)」が置かれている。
また「丸岡城八幡神社」が建っており、南に雲井龍神が祀られ、井戸がある。
西に降りる石段横に「国宝霞ヶ城」の石碑が立てられている。本丸台地の西にあった二の丸跡は宅地化されており、本丸、二の丸を取り巻くように内堀があったが、埋め立てられた。
大手門は二の丸の西に在った。本丸東の堀跡に駐車場、「一筆啓上茶屋」、「丸岡歴史民俗資料館」が建てられ、庭園が造られている。
駐車場の東に三の丸があり、霞町4丁目1に標柱が建てられている。
興善寺(小松市松任町85)に城門が移築されている。
昭和九年(1934年)1月30日 天守が国宝保存法(旧法)に基づく国宝に指定された。
平成十八年(2006年年)4月6日、日本100名城(36番)に選定された。
【歴史】 天正四年(1576年)織田信長の家臣で越前を領していた柴田勝家の甥・勝豊により築城され、豊原寺城から移った。
天正十年(1582年)本能寺の変後、清州会議において勝豊は近江国長浜へ移された。代わって柴田勝家は安井家清を城代に置いた。
翌年、柴田勝家が秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり丸岡城主として青山宗勝を置いた。
慶長五年(1600年)丹羽長秀の死後、領地は秀吉の家臣となった青山宗勝とその子忠元の支配となっていたが、同年の関ヶ原の戦いで西軍に付いたため徳川家康により改易された。
越前国には家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城に秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城した。
慶長十七年(1612年)今村盛次は越前騒動に連座して失脚し、幕府より附家老として福井藩に附された本多成重が4万3千石で入城した。
寛永元年(1624年)2代福井藩主・松平忠直が不行跡を理由に豊後へ配流となり福井藩に減封の処分が下され、本多成重は福井藩より独立、大名に列し丸岡藩が成立した。寛永年間(1624~44)成重により現在の天守が建造された。
元禄八年(1695年)4代本多重益の治世、本多家のお家騒動が起こり幕府の裁定で改易となった。
代わって有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城、以後真純(一準)・孝純・允純(まさずみ)・誉純(しげずみ)・徳純・温純(はるすみ)・道純と有馬氏丸岡藩主8代の居城となり明治維新を迎えた。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となり天守以外解体された。堀は徐々に埋められ消滅した。