百地丹波城 (ももちたんばじょう) (百地砦)
所在地 三重県伊賀市喰代975 2022.4.30
百地丹波城 (ももちたんばじょう) (百地砦)
所在地 三重県伊賀市喰代975 2022.4.30
郭Ⅾの青雲寺
南側入り口
主郭(郭C)・城址碑
主郭西側の土塁
由来記
縄張り図
主郭東の空堀
2郭(郭B)・東側の切岸
郭A
百地丹波城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 伊賀市喰代(ほおじろ)の東から伸びた丘陵西端部に築かれている。
4つの郭から構成され、主郭の高土塁や東側の空堀がよく残っている。
【案内】 県道56号線より南に行った所に入口があり東に行った青雲寺(表記番地)北側の道が広くそこに駐車できる[マップコード131 566 192*71]。
青雲寺西側の堀道を通って、本堂南東側に回ると主郭への入り口がある(地図)。
西側の郭は青雲寺境内で、東側に主郭があり南を除く三方を土塁が巡り、東側の虎口より空堀を挟んで2郭があり、東側は切岸になっている。更に東に少し離れて3郭があり、東端に土橋と堀切が見られる。
【歴史】 戦国時代、伊賀流上忍百地丹波守は伊賀忍者の二大巨頭として鞆田村の藤林長門守に拮抗して南伊賀のこの城で勢力を張っていた。
天正七年(1597年)第一次天正伊賀の乱で、信長に相談せず独断で織田信雄は伊賀国に侵攻したが、百地丹波守が指揮する伊賀衆の奇襲により信雄軍は伊勢へ敗走した。
天正九年(1581年)第二次天正伊賀の乱で、百地丹波守は名張郡柏原村の柏原城に籠っていたが、落城と共に行方知れずになった。