大川城 (おおかわじょう) (古館城・府屋城)
最寄地 新潟県村上市府屋440-1 2018.5.28
大川城 (おおかわじょう) (古館城・府屋城)
最寄地 新潟県村上市府屋440-1 2018.5.28
登城ルート
登り口
藤懸ノ館
河内平
1番平
堀切
2番平(主郭)
2番平南の堀切
3番平(奥ノ平)
大堀切
大川城 奥ノ平跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【感想】 標高140mの山頂に3番平があり、北西に伸びる尾根に2つの郭が配置され北西端に居館跡がある。
アップダウンの多い尾根に堀切を設け、南端に大堀切が残っている。訪れた時は、草茫々ではっきりしない箇所が多々見られた。
【案内】 府屋地区の県道52号線に面した表記番地の先に「古館城址登り口」の標識がある[マップコード278 069 235*51](地図)。ここから歩行距離は約1200mである。道路は狭く戻って第四銀行南のガソリンスタンド跡地に駐車した。
右に行き「藤木神社」前を通って、登ってゆくと居館跡「藤懸ノ館」があり、案内図が建てられている。
南側の「館ノ池」から登る。河内神社跡、一番平(物見平)があり、堀切・2重堀切を過ぎ、鉄塔を右に見て直進する。
空堀(堀切) 七曲坂、堀切の南に主郭(2番平)がある。
更に南に、堀切、段郭があり奥ノ平(3番平・箕輪)がある。奥ノ平は広く北側に土塁、南側に大堀切が残っている。
【歴史】 南北朝時代、在地土豪で北朝方に属した大川彦次郎がいた。
大川城は、大永三年(1523年)大川宣長によって築かれたと云われる。その後、本庄城(村上城)主・本庄繁長に従い、出羽侵攻の道案内を務めた。
大川駿河守忠秀は上杉謙信に従い、永禄四年(1561年)の第四次川中島の合戦で討死した。
永禄十一年(1568年)、本庄繁長が上杉謙信に反旗を翻すと、城主・大川長秀の弟が本庄繁長に呼応し、長秀は大川城を奪われた。
長秀は上杉謙信の命で奪還を図るが成功せず、翌永禄十二年(1569年)、本庄繁長の降伏で大川城も開城し、長秀は帰城したという
慶長三年(1598年)、大川氏は上杉景勝の会津移封に従って移り、以後廃城となったと考えられる。