長窪城 (ながくぼじょう) (深山城・霞の尾城)
最寄地 長野県小県郡長和町古町3751 2015.11.28
長窪城 (ながくぼじょう) (深山城・霞の尾城)
最寄地 長野県小県郡長和町古町3751 2015.11.28
登城ルート(緑線は車道)
搦手口・説明板・城趾碑
北の郭群北堀切
二の郭北堀切
二の郭・本郭
本郭・城趾碑・石垣
本郭
本郭南堀切
南の郭
馬屋跡
長窪城 本郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内】 国道254号線のカーブ付近に搦手に通じる林道入口があり(地図)、林道を600mほど行くと搦手口がある[マップコード85 362 203*63] 。
また北古屋集落の表記番地の西に説明板が建てられ、南50mの東に大手口登り口(地図)がある。秋季南の郭までは止山(キノコ)となり通行できないので、搦手口からの見学を推奨します。
大手口から登ると、比高30mほどに馬場跡がある。登ってゆくと、斜めになった南の郭があり、北に一段登った岩に石祠が祀られている。
堀切の上段に、標高720m比高約80mの山頂に本郭跡があり、休憩所が建てられ、二の丸との間に土塁が残り、石積が見られる。北に隣接して13m×30mの二の郭がある。西に国道152号線(中山道)に沿った長和町の町並が望める。
北に下ると、「北の郭群」と5条の堀切があり、搦手口に着く。標識が要所にあり、搦手口に説明板、城趾碑が建てられている。
昭和53年(1978年)12月1日、長和町の史跡に指定された。
【歴史】 室町時代中期の応永年間(1394~1428年)、大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。その後、佐久岩村田大井の庄、大井氏の親類衆が永くこの地を支配し長窪氏を名乗り、長窪の発展に尽くした。
天文十二年(1543年)九月、城主大井貞隆は甲斐の武田晴信(信玄)の軍に攻められこれに降り、以後長窪城は武田氏が北信濃に進出する重要な拠点となった。
天文十七年(1548年)二月、信玄は長窪城に着陣の後、坂城葛尾城主村上義清を攻め、上田原合戦となった。
天文十九年(1550年)八月、信玄は当城に着陣し、重臣を二回にわたり村上方の守る砥石城の偵察に出し、この後砥石合戦となった。
天文二十二年(1553年)八月、信玄は当城に着陣のあと、和田城、高鳥屋城、塩田城等を攻め落とした。
天正十年(1582年)三月、武田氏が滅亡すると、小県一円は真田昌幸の領地となり、天正十一年(1583年)昌幸が上田城を築いて配下の武士を上田城下に集めたことなどにより、長窪城は廃城となった。『長和町教育委員会説明板』より。