馬伏塚城 (まむしづかじょう) (爬塚城)
所在地 静岡県袋井市浅名1156 2016.3.13
馬伏塚城 (まむしづかじょう) (爬塚城)
所在地 静岡県袋井市浅名1156 2016.3.13
西丸跡・説明板
西丸跡・堀跡(田)
諏訪神社・城趾碑
本丸櫓台・諏訪神社
土塁
配置図
馬伏塚城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道403号線「浅羽支所北」交差点より東に約290m行った地点に「馬伏塚城址」の道標が建てられ、右折するとすぐ、説明板が建てられている[マップコード169 127 791*33] 。
西丸跡の台地が説明版の左奥にある。右手の台地に諏訪神社(表記番地)が建てられ、石段左に「馬伏塚城趾」の石碑が建てられている。
堀を回した本丸跡の北に「今城」、「居館跡」と並んでいた。
昭和五十五年(1980年)11月3日、袋井市の文化財(史跡)に指定された。
【歴史】 築城時期ははっきりしないが、文亀元年(1501年)に遠江国守護・斯波氏と駿河国守護・今川氏が遠江国の支配権をめぐって、中遠地域で激戦が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座王城(袋井市久野)・天方城(森町大鳥居)と共に登場しており、このときには城塞としての機能を果たしていた。
城主として史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏と呼ばれる小笠原春茂(春義・春儀)とその子の氏興(氏清)であり、高天神城(大東町土方)の城主も兼ねていたとされている。
今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となった。天正二年(1574年)六月十七日、南遠地方の要であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、八月一日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造り上げた。
城主には家康の重臣・大須賀康高を置き、天正九年(1581年)に天神城が落城するまで、天正六年(1578年)に築かれた大須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めた。
しかし家康による遠江支配が安定する天正十年(1582年)には、その役割を終え廃城となり、跡地に岡山村が形成されていった。
現在も小字として残る破城(羽城)は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものと考えられる。
城名は「まむしづか」「まぶせづか」と両方あるが、現在では一般的に「まむしづか」と呼んでいる。『袋井市教育委員会説明板』より。