比志城 (ひしじょう) (比志の烽火台)
最寄地 山梨県北杜市須玉町比志274-1 2015.9.12
比志城 (ひしじょう) (比志の烽火台)
最寄地 山梨県北杜市須玉町比志274-1 2015.9.12
登城ルート(緑線は車道)
入り口・城山(左)
鞍部
東郭跡
主郭跡・秋葉社
城山の標柱
比志城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 県道23号線「増冨ラジウムライン」の増冨郵便局(表記番地)のすぐ先を右折し登ってゆくと徳泉寺前に駐車スペースがある。
荒れた林道を約350m徒歩で登り、砂防ダム堤防の先のガードレールの切れ目に入り口がある[マップコード 537 614 732*4 ](地図)(標識はない)。
北の谷を横切って、城山の右の山に登り口がある(標識はない)。山腹を登ってゆくと尾根鞍部に出、左に登ると細長い東郭があり、さらに登ると主郭がある。
標高909.6m比高約60mの山頂の主郭は20m四方の広さがあり、小屋掛けの中に秋葉社があり、朽ちた「比志の城山」の碑が古木に立てかけられている。西側の下段に曲輪が見える。
堀切、土塁など防御施設は、ほとんど見当たらず烽火台が使用目的と思われる。
【歴史】 眼下の比志の集落は信州と甲州をつなぐ小尾街道が通り、増冨の金山に近くの道沿いにあって、戦略的にも重要な場所である。又、御岳山、金峰山、瑞牆山など山岳信仰の地を結ぶ交通の要地でもあった。城の遺構は山頂の主郭とそれに続く西郭が良好に残っている。烽火台にも使われたという『須玉町教育委員会碑文』。
武田信玄の時代には、烽火通信の中継地として重要な場所であったといわれ、塩川上流の「大渡の烽火台」「比志城」「前の山の烽火台」等と連携し、甲信国境の信州峠に続いている。
天正十年(1582年)天正壬午の乱では、家康は韮崎の新府城に布陣し、北条氏直は若神子城に本陣を構え、大豆生田砦と獅子吼城に兵を配置しているので、地理的に北条氏に使われたと考えられる『獅子吼城説明板』より。