髻山城 (もとどりやまじょう)
最寄地 長野県上水内郡飯綱町平出926−1 2014.7.16
髻山城 (もとどりやまじょう)
最寄地 長野県上水内郡飯綱町平出926−1 2014.7.16
登城ルート(緑線は車道)
登り口
謙信馬洗いの池
空堀(馬かくし)
主郭虎口・石垣
主郭土塁・説明板・天測点
主郭・四阿・祠
髻山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m 】
【案内・感想】 飯綱町公民館分館(表記番地)より西に150m行き、県道60号線を斜めに横断し(「髻山登山道入口」の標識あり)、三叉路を東に(右折)りんご畑の間を約250m行くと、溜池がある[マップコード54 494 569*78](地図)。
そこに駐車し、[髻山は火山です]の案内板前より南西に標高744m(比高140m)の髻山へ登ってゆく。途中、五世紀後半の円墳「泥ノ木古墳」や「謙信馬洗いの池」と呼ばれる三百坪ほどの窪地がある。
大城本丸の手前に「馬隠し」と呼ばれる深い空堀があり、本丸虎口横に石垣が残り、直径30mほどの本丸は周囲を土塁で囲われ、星で測量を行う天測点、祠、観世音の石、四阿などがあり説明看板が建てられている。
また謙信が掘った井戸「観音清水」が残る。南と東斜面が急峻でことに東斜面は断崖絶壁となり、天然の要害である。
髻城は、大城と小城があり、一般的には大城のことを髻城といっている。小城は大城の東南麓約350mの位置に突起した小円頂丘火山(650m)に立地していた。本丸の頂上と南斜面・小城は長野市若槻西条、北斜面は飯綱町平出の地籍である。
【歴史】 上杉謙信が、川中島の戦いに備えて築いたとされる。
永禄七年(1564年)九月上杉謙信の家臣・直江実綱が、堀江宗親・岩船長忠両氏に武田軍の状況を通報させたとする古文書に、「敵もとどり山江、小旗四、五本にて、毎日武具致すよし候」と記され、武田・上杉氏の川中島の戦いに際し、武田氏の使用が確認されている。
髻山城は、長沼城が築城された永禄六年(1563年)頃以降、特に重要視され、その構造から武田氏滅亡後、川中島四郡を支配した上杉景勝とも深く関わったことが想定される。