安祥城 (あんしょうじょう) (安城城)
所在地 愛知県安城市安城町城堀30 2014.12.11 2019.3.2
安祥城 (あんしょうじょう) (安城城)
所在地 愛知県安城市安城町城堀30 2014.12.11 2019.3.2
説明板
南側堀跡
南側堀跡
大乗寺
城址碑
西側切岸
八幡社
安祥城本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 安城市歴史博物館(表記番地)の西の駐車場を利用できる[マップコード17 386 898*15]。
大乗寺の建つ高台が本丸跡で、山門前に城址碑が建てられており、本堂横に土塁が僅かに残り、西に切岸が残っている。北に「本多忠高」の墓碑(寛政九年・市の史跡)がある。
西の二の丸跡に八幡社が建てられている。南に堀跡が安祥城跡公園の池となっている。安城市歴史博物館の敷地が三の丸である。
【歴史】 永享十二年(1440年)、三河国碧海郡周辺を支配していた和田氏(畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる。
その後、文明三年(1471年)、三河国岩津城主の松平信光が謀略を用いて無血落城させ、以後松平氏四代の居城となった。この4代を安祥松平氏と呼ぶ。
『徳川実記』によれば、大永四年(1524年)、4代目の松平清康は、岡崎城を取得するも、なお安祥を本拠とし森山崩れで没するまで、安祥松平家(徳川本家)の本拠地となった。徳川本家の本城が岡崎城になるのは、松平広忠の時代からである。
天文四年(1535年)に清康が家臣に殺され森山(守山)崩れが起こると、継嗣・広忠を一族の松平信定(広忠の大叔父)が岡崎城から追放し実権を握るが、翌、天文六年(1537年)に信定が岡崎城を退去したため、広忠が再入城した(その後、信定は許される)。
しかし、三河の諸豪族が相次いで離反し、一族からも謀反が起こるなど松平氏は弱体化した。 天文九年(1540年)、松平氏が弱体化したこの機に尾張国古渡城主・織田信秀が安祥城を攻撃し落城させ、城代に織田信広を置いた(第一次安城合戦)。
天文十三年(1544年)八月にもう一度織田敏宗に攻撃させるも失敗し、翌月、織田信秀が三度目の攻撃をして落城させたとされる(第二次安城合戦?)。
天文十四年(1545年)、広忠は安祥城の奪還するために、家臣の攻撃中止の進言を聞き入れず、戦いを挑んだ。しかし、織田勢の挟撃に遭い大敗、広忠の命も危うくなったが、本多忠豐(忠高の父)をはじめとする家臣の奮戦によって岡崎に逃げることが出来たが、忠豊は広忠の身代わりになって討ち死にした(第三次安城合戦)。
この戦いに敗れた事によって、松平氏の弱体化は、決定的となった。 天文十六年(1547年)、織田氏の討伐軍が侵攻し、広忠はやむなく、今川氏に救援を求めた。
これに対し、今川氏の当主・今川義元は人質として、竹千代(後の徳川家康)引き渡しを要求、広忠は受諾し竹千代を駿府に送るが、途中で田原城主戸田康光に拉致され尾張の織田氏に売られた。しかし、これにより松平氏は今川氏の傘下に入った。
天文十八年(1549年)に広忠は病死した。今川義元はすばやく、同年三月に太原雪斎率いる2万の今川・松平連合軍で安祥城(城将織田信広)を攻めさせた。落城寸前まで追い詰めるも城兵の奮戦によって失敗し、この時松平方の主将本多忠高(忠勝の父)は敵の矢に当たって討死した(第四次安城合戦)。
同年十一月八日(11月26日)から翌日にかけて再び攻撃し落城させた(第五次安城合戦)。
このとき城代の織田信広を捕縛し、織田家に奪われた竹千代と人質交換をした。今川氏は安祥城を攻略した後、岡崎城にも城代を派遣し三河国の殆どを乗っ取ることに成功した。
この後、今川義元が桶狭間の戦いで横死し、松平氏は独立し、織田氏との間に清洲同盟が締結されたことで岡崎城の前線としての価値が薄れ、永禄五年(1562年)ごろ、廃城になった。その後、小牧・長久手の戦いの時にも兵が置かれた。