武節城 (ぶせつじょう) (地伏城)
所在地 愛知県豊田市武節町シロ山194 2017.2.26
武節城 (ぶせつじょう) (地伏城)
所在地 愛知県豊田市武節町シロ山194 2017.2.26
説明板
登城ルート
大手口・標識
三の丸
二の丸
本丸
本丸・城址碑・城山神社
武節城址碑
本丸西側
南側空堀
武節城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【感想】 名倉川左岸の標高545m比高約30mの丘陵にあり、信州との国境にも近い。飯田街道の交通の要衝であり、西に25kmほど行くと足助城がある。
道の駅周辺は意外に観光客が多く賑わっていた。トンネルの左に大きな城跡看板が建てられ、遠目にもそれとよくわかる。遠路はるばると、折角来たので帰りは温泉に浸かって帰った。
【案内】 国道153号線(飯田街道)の「城山トンネル」上に位置する。
道の駅「どんぐりの里いなぶ」(豊田市武節町針原中村22-1)の駐車場が利用できる[マップコード368 165 198*72]。隣接して稲武温泉がある。
登り口は2ヶ所あり、北側大手(地図)から舗装された道が本丸跡まで通じている。3の丸、2の丸、本丸と順番に見ることが出来る。本丸櫓台上には城山神社(表記番地)が祀られている。
南側の搦手(地図)からは、空堀を見ることが出来る。
【歴史】 永正年間(1504~21年)に田峯城の菅沼定信が築いたとされる。
弘治二年(1556年)に武田信玄の家臣である信濃国伊那郡の下条信氏が攻め込んだ。
続いて、元亀二年(1571年)に発生した信玄の西上作戦によって定信の子孫である田峯菅沼氏の菅沼定忠が武田氏に降伏すると、武節城も武田氏の城となった。
だが、信玄の没後に田峯菅沼氏が属する山家三方衆は武田氏側と徳川氏側に分裂し、天正三年(1575年)五月二十一日の長篠の戦いの一因になった。
長篠の戦いに敗れた武田勝頼は徳川氏側によって田峯城を追われた菅沼定忠とともにこの城に落ち延び、ここで一泊の後に信濃国に戻った。だが、菅沼定忠も武節城に留まる事はできず、他の武田氏側の山家三方衆と共に伊那郡に拠点を移して反抗を試みるが、最終的には武田氏と運命を供にした。
その後、この地域は徳川氏についた山家三方衆の1つ奥平氏が支配していたが、天正十八年(1590年)の徳川氏の関東地方移封時、もしくは関ヶ原の戦い後に旧領を回復した奥平氏が翌慶長六年(1601年)に再度転封になった際に廃城になったとされている。