井口城 (いのくちじょう)
最寄地 富山県南砺市宮後180 2014.10.24
井口城 (いのくちじょう)
最寄地 富山県南砺市宮後180 2014.10.24
井口城址碑
宗良親王御詠歌碑
説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 県道21号線と県道71号線交差点のガソリンスタンド(表記番地)北の道路を東に250m行くと、水田の中の道路に面して墓地がある[マップコード122 142 872*12](地図)。
大きな「井口城址碑」石碑及び、「宗良親王御詠歌」碑、説明板が建てられている。「宗良親王御詠歌」は「雪つもる越の白山冬深し夢にも誰か思いおこせむ」と歌われている。
平成四年(1992年)1月10日、南砺市の文化財(史跡)に指定された。
【発掘調査】 昭和六十三年から平成三年にかけて行われた発掘調査によると、主郭は東西約90m、南北約60mの長方形で東に小さな出丸があり、周囲を広い所で巾20mの堀で囲われ、西は旧河川に接していた。
また平安時代末期から戦国時代までの土器や漆塗椀、下駄などが出土したほか、井戸跡も発見された。
【歴史】 詳しい築城年代は不明だが、鎌倉時代後期に付近を支配していた豪族井口氏が拠っていたと云い、おそらくこの時期に築かれたものと思われる。
南北朝時代初頭、井口氏は越中国守護名越時有の子・名越時兼と共に中先代の乱に参加したり、足利尊氏の御教書を得た越中国守護普門年清に従って挙兵し、越中国国司中院貞清と戦いこれを石動山にて敗死させたりと活発に動いている。
正平年間(南朝暦・1346~70年)になると南朝方の有力者だった、越中国守護・桃井直常が庄ノ城を拠点として周辺を支配した。井口氏はこれに従い井口城は庄ノ城の支城として機能した。
井口氏が野尻氏らと共に直常の配下として各地を転戦している様子が『太平記』に見える。
康安二年(北朝暦・1362年)には直常が信濃国より越中国へ侵入して兵を集め、北朝方であった加賀国守護の富樫氏を攻めるも撃退されて井口城へと逃げ帰っている(『太平記』)。
その後、応安二年(1369年)に桃井直和(直常の子)が再び富樫氏を攻めたが再度失敗に終わり、逆に能登国守護の吉見氏に追撃されて同年九月二十四日、井口城は千代ヶ様城と共に落城した。桃井勢は松倉城へと逃れた。
井口氏はそれに従って越中国大家庄(現富山県下新川郡朝日町大家庄)へと拠点を変えたとみられるが、その時期が、井口城が落城した時なのか、それ以前なのかは判然としない。もしくは元々同族が大家庄に居住していたのか判然としない。