黒田城 (くろだじょう)
所在地 愛知県一宮市木曽川町黒田古城26‐2 2014.12.10
黒田城 (くろだじょう)
所在地 愛知県一宮市木曽川町黒田古城26‐2 2014.12.10
公園・冠木門
城趾碑
山内一豐公の像
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 黒田小学校(表記番地)の北西の一画に小さな公園が造られ、「黒田城趾」の石碑と、説明案内板、山内一豐公の銅像、日清、日露戦役紀念碑などが建てられている[マップコード28 349 033*08](地図)。
一宮市の史跡に指定されている。遺構は特に残っておらず、敷地の多くは一宮市立黒田小学校となっている。
【歴史】 明応年間(1492~1501年)に相模国から尾張に入った五藤源太左衛門光正が居館を築いたのが初めてであるといわれている(『五藤家文書』)。
この五藤家は後に山内家に仕え、江戸時代には五藤為重が土佐藩の重臣となり、安芸城に入っている。
天文初年(1532年以降)には岩倉城を本拠とする織田伊勢守家の家老・山内但馬守盛豊が城代として入った。
天文十四年(1545年)にはこの城で盛豊の三男として山内一豊が誕生している(『一豊公御武功附御伝記』)。
弘治三年(1557年)七月、盛豊は黒田城に於いて夜討ちに遇い、長男十郎と共に討たれた。その後、犬山城主織田十郎左衛門信清の弟・織田勘解由左衛門尉廣良が城主となった。
永禄五年(1562年)廣良が美濃斎藤氏との軽海の戦いで討死した後、犬山織田信清の家老和田新助が城主となった。
天正二年(1574年)伊勢長島における一向一揆の戦いで新助が討死し、弟の和田八郎定教が城主となった。定教は何らかの理由で追放され本貫の近江国甲賀郡に帰って隠遁し、本能寺の変後に三河に逃走しようとしていた徳川家康を助けたことで召し出され、子の和田定勝は家康に仕えている。
天正十年(1582年)六月織田信長が本能寺の変で、明智光秀に討たれると、織田信雄が伊勢、尾張を領することとなり、清洲入りし沢井左衛門尉雄重を黒田城主とした。
天正十八年(1590年)、織田信雄が転封を拒否して改易されたのに巻き込まれて沢井雄重も禄を失い、黒田城には3万5千石で一柳直末の弟・直盛が入った。このときに黒田城は大きく改修がなされ、比較的大きな構えになったと考えられている。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いの功により一柳直盛は伊勢国・神戸(神戸城)に5万石で転封され、黒田城は尾張を所領とした松平忠吉の支城となり、家臣の富永忠兼が入ったが、しばらく後に廃城となった(『清洲分限帳』によれば慶長十四年(1609年)まで預かっていた)。