若槻里城 (わかつきさとじょう)
所在地 長野県長野市大字若槻団地3番地 2019.11.10
若槻里城 (わかつきさとじょう)
所在地 長野県長野市大字若槻団地3番地 2019.11.10
若槻里城公園
説明板・城跡碑
配置図
若槻里城公園東側の堀跡
若槻里城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 駒沢川南の若槻団地にある公園南側の住宅地となっており、遺構は消滅している。公園北側に平成13年10月に建てられた新しい城跡碑が建てられている。
明治初年の配置図によると、里城池(堀)が公園となり、その南側に本丸、2の丸が記されている。東西120m南北180mの規模であった。
【案内】 長野市大字若槻団地の北側にある「若槻里城公園」に城跡碑と説明板が建てられている[マップコード54 341 602*73]。
【歴史】 若槻頼隆は源義家の孫にあたり、清和源氏の直系である。父義隆は義家の7男で源頼朝の父義朝の身代わりとなって平治の乱で討死した。
若槻頼隆は鎌倉幕府の御家人として、相模国毛利庄より若槻庄の地頭職を賜りこの地に移り、里城、若槻山城を築き、若槻氏の祖となった。
頼隆の子頼胤・頼定の兄弟が建治元年(1275年)京都六条八幡宮の再建費用として10貫文を拠出している。
兄頼胤は里城を居館として、子孫は押田氏、多胡(田子)氏に分流し、弟頼定は真光寺に居館を構え子孫は西条氏と称した。
室町時代に高井郡高梨氏に隷属し若槻庄もその知行地となった。
応永十一年(1404年)信濃守護代・細川慈忠の入信濃に反抗して高梨氏と共に争い、里城は落城した。
嘉吉元年(1441年)常陸国の結城合戦に再起し、幕府軍の5番陣の旗頭として高梨・須田・井上の諸氏と共に関東に出陣した。