燧ヶ城 (ひうちがじょう) (燧城)
最寄地 福井県南条郡南越前町今庄80-5 2017.8.6
燧ヶ城 (ひうちがじょう) (燧城)
最寄地 福井県南条郡南越前町今庄80-5 2017.8.6
説明板
登城ルート
観音堂参道・登り口
大手東端の石垣
桝形虎口の石垣
主郭東の石垣
城址碑
主郭西の石垣
主郭と2郭間の土橋・堀切
2郭
2郭西端の土塁
燧ヶ城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 標高643mの藤倉山から東に伸びる標高270mの尾根先端部にあり、北陸道、北国街道の交通を抑える要衝である。土橋、桝形石垣、主郭石垣などよく残っている。
【案内】 北陸本線「今庄駅」より西に行った今庄宿の通りに面して、観音堂参詣駐車場があり、説明板が建てられている[マップコード200 084 121*21]。
新羅神社(表記番地)と隣り合った観音堂の左より遊歩道を登る。防獣ネットを潜り九十九折れの道を登ると、古い石段があり、大手の石垣がある。
その先に折れのある土橋・堀切、桝形虎口がある。少し西に行くと石段があり主郭がある。主郭の両側に石垣があり、中央に城址碑が建てられている。
西に行くと堀切、土橋があり、2郭を経て西端に搦め手の土塁が残っている。その先は藤倉山への遊歩道が伸びている。
【歴史】 『源平盛衰記』によると、寿永二年(1183年)四月、平家は木曽義仲追討のため、平維盛の率いる十万の大軍を北陸路に差し向けた。
義仲は越後の国府にいて、燧ヶ城にはその家臣・仁科太郎守弘や、平泉寺長吏齊明威儀師を大将として立て籠もり、日野川を堰き止め一帯を水浸しにして平家の大軍を迎えた。
しかし、齊明威儀師が平家に内通し陥落し、義仲軍は敗走した。その後、五月に俱利伽羅峠の合戦に義仲は勝利し、七月に上洛した。
南北朝時代、延元元年(1336年)足利方(北朝方)の将として今庄入道浄慶が立て籠もり、南朝方新田義貞軍に味方し挙兵した杣山城の瓜生保軍と対峙し、敦賀金ヶ崎城との連携を阻止する作戦にでた。
『太平記』では、新田義貞、脇屋義助らの行軍に際し、由良光氏の節義に感動した淨慶が金ヶ崎への道を開いたというエピソードが記されている。
戦国時代になると、斯波氏家臣の赤座氏や朝倉氏家臣の魚住氏が籠ったといわれる。
朝倉氏滅亡後、天正三年(1575年)には越前一向一揆の総大将下間筑後法橋頼照が藤島超勝寺、荒川興行寺の一揆勢と立て籠もり、織田信長軍と対戦したと伝えられている。
天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の合戦の際、柴田勝家自らここを守った。