埴原城 (はいばらじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県松本市中山4524 2015.12.6
埴原城 (はいばらじょう) (県の史跡)
最寄地 長野県松本市中山4524 2015.12.6
登城ルート
蓮華寺・登り口道標
御屋敷跡
西側堀切
段郭
二の郭
本丸
本丸石垣
東背後の堀切
堀底道 (横堀)
埴原城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【案内・感想】 県道63号線より東に「埴原城入口」の石碑、説明板が建てられている。300m程東に行った「蓮華寺」(表記番地)の西に駐車場が用意されている[マップコード75 676 070*17]。
北に200mほど行くと「的畑跡」「梅屋敷跡」「御屋敷跡」がある。その東に少し登ると、獣除けフェンス扉(地図)があり、扉を開け閉めて左手のフエンスに沿って登る。
尾根に沿って九十九折の遊歩道を登ってゆくと、5合目付近に堀切がある。そこより左の尾根に段郭、堀切がある。
遊歩道をゆくと途中、説明板が建てられている。構(かまえ)という郭があり、帯郭を通って、本丸虎口に出る。虎口のある南面に石垣がよく残っている。本丸の西に、二の郭があり、その西に段郭がある。
本丸は大きく2つのに分けられ、西側に説明板があり、東端に削り残した土塁がある。その東に後郭がある。
後郭の土塁を下った東に、空堀が残る。東に堀底道が続いている。
昭和四十五年(1970年)10月22日長野県の史跡に指定された。
【歴史】 埴原城は文献資料が残っていないため、詳細は定かではないが、元々は埴原牧を背景として勢力のあった埴原(村井)氏が築城したといわれている。
守護小笠原貞宗が府中に移ってからは、村井氏を配下として林城南方の前線基地として急速に規模が拡大された。
天文十九年(1550年)七月十五日武田晴信が小笠原長時を攻略する埴原城を陥れたため、林城はじめ諸城が、相次いで自落したことでも、戦略上重要な要害であったことが知れる。その後、武田氏の支配となった。
天正十年(1582年)武田氏滅亡後に、木曽氏や上杉氏との軍事的緊張下にあった小笠原貞慶(小笠原長時の3男)が現在の遺構のように改修したものである可能性が高い。『長野県教育委員会説明板』より。