赤谷山城 (あかだにやまじょう) (東殿山城 )(とうどやまじょう)
最寄地 岐阜県郡上市八幡町島谷85 2014.11.26
赤谷山城 (あかだにやまじょう) (東殿山城 )(とうどやまじょう)
最寄地 岐阜県郡上市八幡町島谷85 2014.11.26
配置図説明板
登城ルート
円通閣・登り口(右)
四の曲輪・社
大手曲輪
比高約50mの急坂
三の曲輪
二の曲輪
一の曲輪
西斜面石垣
赤谷山城 一の曲輪跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高260m】
【案内・感想】 標高578mの東殿山頂上に古城・東殿山城跡(別名気良城・犬鳴城)がある。その北の尾根(標高約510m)上に新城・赤谷山城跡が在り、円通閣からの比高は約260mで、歩行距離は800m程に及ぶ。
「愛宕公園」(表記番地)駐車場[マップコード289 896 511*22] (地図)より忠魂碑の横の石段を登り、円通閣横より愛宕山西国三十三霊場巡りの遊歩道がある。
木道を登って行くと四の曲輪(地図)があり、小さな神社があり「八幡町赤谷山城跡」の碑があり、案内板が建てられている。
途中、角々に仏像が安置されている。東に一旦下り、鞍部を越えてゆくと大手曲輪があり、比高約50mを登ると三の曲輪がある。
更に比高30mほどの険しい斜面を登ると二の曲輪があり、一旦下り、比高50m余の険しい斜面を登ると帯曲輪、約30m四方の一の曲輪がある。
「赤谷山城跡(東殿山城)」の木板が木柱に掲示されている。帯曲輪の西斜面に石垣が残る。南方の東殿山頂上への道は通行止めとなっている。
【歴史】 古城・東殿山城は応永十六年(1409年)に、東氏の六代目篠脇城主・東益之によって気良荘赤谷山に築かれた。
益之が篠脇城から移り居城にしたとも言われるが、一時的なものか、気良・和良・下川等の要地を押さえる支城だったと見られる『日本城郭体系9』。
新城・赤谷山城跡は天文十年(1541年)に東氏の十一代目、篠脇城主・東常慶により築かれた。
天文九年(1540年)、同十年と二度にわたり越前朝倉氏の侵攻を受けた常慶が、篠脇城では郡上防衛に不十分と知ったために築城したもので、子の常堯(つねたか)を置いて守備させた。
永禄二年(1559年)八月一日、常堯は東殿山城を訪れた支族で木越城主の遠藤胤縁を、家臣・長瀬内膳に命じて鉄砲で暗殺した。
胤縁の弟で鶴尾山城主・遠藤盛数(常慶の娘婿)は、かねてから宗家に取って代わろうと考えていたため、弔い合戦を大義名分として兵を挙げ、八月十四日に出陣して東殿山城を攻めた。
十日間の防戦の末、八月二十四日に城は炎上し、東常慶は戦死、常堯は飛騨帰雲城に逃げ落ちて、東殿山城は落城した。城の東側の谷はこの戦いで兵が転げ落ちたことから、今でも「地獄谷」と呼ばれている。また、赤谷川の水が赤いのは、落城した際の戦死者の血が今でも流れているためだという伝説がある『太田成和 「郡上八幡町史」上巻、東殿山城』。
天正十三年(1585年)十一月二十九日の大地震の際、帰雲山崩壊のため城下が埋没し、常堯も運命を共にしたという。
東殿山の呼称は天明三年(1783年)発行の漢詩集『濃北風雅』によるものである。