桑名城 (くわなじょう) (扇城・旭城) (県の史跡)
所在地 三重県桑名市吉之丸9 2013.9.2
桑名城 (くわなじょう) (扇城・旭城) (県の史跡)
所在地 三重県桑名市吉之丸9 2013.9.2
蟠龍櫓
七里の渡し跡
配置図
本丸・本多忠勝像
内堀
天守台
神戸櫓跡
内堀・右二の丸跡・吉之丸跡
桑名城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 揖斐川長良川の合流地点の西に位置している。城跡の北側に東海道の渡しであった七里の渡跡があり、その南の二重櫓「蟠龍櫓」が復元され(平成十五年)一階は水門統合管理事務所として二階は資料館・展望台として利用されている(地図)。
城跡は九華公園となっており、二重の堀がめぐらされ、船入橋を渡ると、三の丸跡に有料駐車場があり[マップコード38 834 484*46] 、その堀側に「本多忠勝」の銅像が建てられている。本丸には護国神社(表記番地)や、石垣の天守台があり、南西隅の堀に面して神戸櫓跡があり、南東に辰巳櫓跡がある。
朝日丸跡(地図)は九華公園グランドとなり、その南が巾約50mの堀で隔てられた二の丸跡(地図)で、その東が吉之丸跡(地図)である。各郭は朱塗りの橋で結ばれ、郭の土塁の堀側は石垣で覆われている。
昭和十七年(1942年)1月17日、県の史跡に指定された。
【歴史】 戦国時代の桑名の地には土豪が蟠踞(ばんきょ)し伊藤武左衛門の東城、樋口内蔵の西城、矢部右馬允の三崎城と桑名三城と呼ばれる城があった。
現在の桑名城は東城があった辺りであり、永正十年(1513年)に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の始まりと考えられている。
天正二年(1574年)織田信長がこの地を征し、部将の滝川一益が三城を配下に置いた。その後、豊臣秀吉の時代になると神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家定和、松平家乗と城主が目まぐるしく入れ替わった。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は慶長六年(1601年)徳川四天王の本多忠勝を桑名十万石に封じた。忠勝はその直後、揖斐川沿いに城郭の建造を開始し、城には船着場も整備し、四重六階の天守をはじめ51棟の櫓、46棟の多聞櫓が立ち並んだ。また同時に城下町も整備された。
元和三年(1617年)二代忠政は姫路藩(姫路城)に移封となり、代わって松平定勝が入城した。元禄十四年(1701年)松平定重の時に、桑名市街地の過半を焼く大火に遭い、この際に天守も焼失し以後再建はされなかった。
宝永七年(1710年)定重は越後高田藩(高田城)に移封となり、代わって松平(奥平)忠政が入城し7代続いた後、文政六年(1823年)に忍藩に移封となった。
代わって松平(久松)定永が入城した。先に高田に移封となった久松家の再入城となった。この際に藩祖である松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀る鎮国守国神社を城内に勧進した。
幕末には松平容保の実弟である松平定敬が藩主となり、京都所司代として兄と、京都の治安を預かった。
大政奉還後の慶応四年(1868年)鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に定敬も江戸に向かった。藩主不在の桑名城では抗戦か恭順か激論となり鎮国守国神社の神籤により上層部では抗戦と決定したが、下級藩士の猛反発にあい、結局は無血開城した。明治政府軍は、桑名城を焼き払い開城の証とした。
松平定信没後百年にあたる昭和三年(1928年)に本丸・二之丸一帯が整備され、九華公園となった。