妙義山城 (みょうぎさんじょう)
最寄地 長野県塩尻市洗馬2323−1 2021.4.2
妙義山城 (みょうぎさんじょう)
最寄地 長野県塩尻市洗馬2323−1 2021.4.2
登城ルート(緑線は車道)
資料館にある説明板
釜井庵・登り口標柱
北東尾根の堀切・曲輪
北東側の段
二の曲輪
主郭・妙義神社
南東の堀切
主郭西の大堀切・土橋
南西の鉄塔の郭
妙義山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【感想】 長興寺山より北東に伸びた標高891mの山頂に築かれている。
主郭には妙義神社が祀られ、背後に低い土塁や大堀切が残り、折れのある土橋が見られる。
南東にも土塁付きの堀切がよく残っている。
【案内】 県道293号線より西に行った「本洗馬歴史の里資料館」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード75 364 441*72]。
資料館の北側に釜井庵館があり、茅葺屋根の建物が保存されている。
その手前から登り口があり、尾根のやや左側を登って行くと、北東尾根に出、堀切や右側に大曲輪がみられる(案内図には南東大曲輪と表示されている)。
そこから急な尾根道を登ると、二の郭に着き主郭周辺図が建てられている。 主郭には妙義神社が祀られ、西側に大堀切、南東によく目立つ堀切がある。
西尾根から南西に行くと2条の堀切を経て鉄塔の建つ郭に着く。長興寺山に続く西側尾根にも堀切がみられる。
【歴史】 洗馬荘の国人領主三村氏の居城で、大永三年(1523年)に三村忠親が築城し、それまでの武居城(朝日村)から本拠を移したと伝わる。
三村氏は信濃守護・小笠原氏に従ったが、天文十七年(1548年)六月の「塩尻峠の戦い」では三村駿河守長親は西牧、二木氏らと共に小笠原長時に叛き、小笠原方大敗の要因となった。
その後、武田氏に仕えたが、謀反の疑いをかけられ、天文二十四年(1555年)武田晴信によって甲府の一蓮寺で長親一族は謀殺され、三村氏は滅亡した。
居館には18世紀中ごろ、釜井庵が建てられ、何度も修復を行い現在に至っている。