横地城 (よこじじょう) (金寿城 )(きんすじょう) (国の史跡)
最寄地 静岡県菊川市東横地3131 2014.7.1
横地城 (よこじじょう) (金寿城 )(きんすじょう) (国の史跡)
最寄地 静岡県菊川市東横地3131 2014.7.1
登城ルート
金玉落しの谷
詰の城の標柱
二の丸跡・横地神社
中城登り口・標柱
東城本丸・城跡碑
横地城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 県道245号線の「ミクニパーテック横地工場」(表記番地)を北に折れ、約550m北東に行き左折、北に上池堤防を通って約200m行くと、道標がある。
未舗装の細い道を登って行くと、「一騎駆」と呼ばれる細い道の東に三叉路がある[マップコード83 493 869*14](地図)。
分岐より西、尾根伝いの道を約350m行くと「詰の城」(地図)があり、堀が残り、その西は茶畑となっている。
分岐の南に「金玉落しの谷」と呼ばれる深い谷がある。
分岐を東に約250m行くと南に千畳敷があり、北に西城(二の丸)跡がある。明治三十五年(1902年)に建立された横地神社が祀られ、土塁・空堀が残り、二の丸南斜面の道路際に井戸がある。
そこより東約100mに中城(地図)(東城と二の丸の境に木戸を設け、その傍ら東に兵器庫、干し飯庫が置かれていた)があり、さらにその東約150mに東城と呼ばれる本丸跡があり、城跡碑が建てられ南東側にわずかに土塁が残っている。その北の下段に井戸跡がある。
平成十六年(2004年)9月30日、菊川城館遺跡群(高田大屋敷遺跡・横地氏城館跡)の横地氏城館跡(横地城跡を含む)として国の史跡に指定された。
近年の発掘調査により居館跡の殿ヶ谷遺跡、武家屋敷の伊平遺跡などが発見されている。横地氏は全国の横地姓のルーツであるといわれている。勝間田城(静岡県牧之原市)城主の勝間田氏は横地氏の分家である。高田大屋敷遺跡の東約3kmに位置する。
【歴史】 室町時代初期に 十代横地太郎家永によって築城された。
初代横地太郎家永(1052~1126年)は八幡太郎源義家と相良の土豪・相良太郎藤原光頼の娘との落し子と伝わる。以後代々横地太郎を冠した。
その後二代横地太郎頼兼(1107~42年)は横地系図の一族で、次男は勝間田に住んだ。
三代長宗(1132~76年)は保元元年(1156年)七月に起きた保元の乱で後白河天皇方に味方し活躍した。
四代長重(1162~1222年)は源義経に従い、源平合戦で功をあげた。 五代長直(1214~76年)は幕府御家人として、御所奉公した。
六代師重(1235~77年)は弓の名手で、鎌倉鶴岡八幡宮の弓始儀式を勤めた。
七代師長(1257~1307年)は従五位下・山城守として、反幕謀反鎮圧に勲功があった。また蒙古来襲の際、京の防衛に当たった。
八代長国(1279~1332年)は鎌倉に住まい、笠置城攻めで功をあげた。 九代長則(1314~61年)は北条氏滅亡後、足利氏に従った。
十代家長(1337~1409年)は従五位下・山城守となり青年武将であった(太平記)。また横地城を築城した。
十一代長豊(1383~1437年)は遠江守で、将軍の御供衆として京都に滞在した。応永十六年(1409年)斯波義重が遠江守護となった。
十二代長泰(1413~39年)は永享十年(1438年)に起きた永享の乱において箱根水呑戦で戦死した。
十三代長秀(1434~94年)は足利義政に仕えたが、応仁の乱で敗北した。 十四代秀国(1465~1506年)の時、横地四郎兵衛の守る横地城は文明八年(1476年)今川義忠に焼き討ちされ勝間田城と共に落城し、兵衛は討死した。
横地城を攻略した今川義忠はその帰路に遠江国塩買坂で、横地の残党に襲われ討死した。
その後秀国は永正三年(1506年)北条早雲の反今川攻撃に従って転戦後、討死した。
十五代元国(1505~1554年)は武田信虎を頼って甲斐国へ落ち延びた(二歳)。その後再興はならなかった。『菊川市教育委員会説明板』より。