願海寺城 (がんかいじじょう)
所在地 富山県富山市願海寺164 2014.10.5
願海寺城 (がんかいじじょう)
所在地 富山県富山市願海寺164 2014.10.5
城址碑・説明板
説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 表記番地の北東角に「願海寺城址・寺崎民部左ェ門居城」の石碑が建てられ、横に説明板がある[マップコード40 467 637*13](地図)。水田の中に民家があるのみで城跡の面影は無い。
呉羽山の北西に位置する平城である。主郭の他に「二之廻輪」が在り、それらを水堀で囲んでいた。周りは湿地帯であったという。
【発掘調査】 永らく城の所在は不明であったが、平成十四年の発掘調査により二重の水堀を備えた居館跡、井戸の跡が見つかり、堀の中から土師器(かわらけ)・珠洲焼・青磁・瀬戸美濃などの陶磁器や木簡、将棋の駒、箸、櫛、曲物などが漆器類と共に出土し、願海寺城と推定され、漸くその正確な所在が明らかとなった。
木簡の表には「多て王き」裏に「暫王り多て己」と墨で記されている。
主郭の周りの堀は幅約5m、深さ1.5m程であった。城下町内を北陸道が貫通しており、道は防衛の為に曲がりくねった造りとなっており、これは現在、「願海寺の七曲り」として伝わっている。
【歴史】 正確な築城年代は不明であるが、少なくとも上杉謙信に攻め落とされる以前までは遡れる。越中国の国人寺崎氏の居城であり、寺崎氏が築城したと思われる。
寺崎氏は畠山氏の家臣であったが、天文十九年(1550年)上杉謙信によって落とされ、当主の寺崎行重が敗死した。跡を継いだ子・盛永は謙信や越中国富山城主神保長職らとの間で巧みに立ち回った。
天文二十一年(1552年)、謙信に属していた寺崎盛永が井田城主飯田(斎藤)利忠と戦った(天神林の戦い)。
戦いは利忠の弟である利常、利憲が討たれ利忠は同族である斎藤信利が拠る越中国城生城へと逃れるなど、盛永の勝利に終わった。盛永は余勢を駆って城生城を攻めたが、こちらは上手く行かず撤退した。
天正二年(1574年)、能登国を治めていた畠山氏の当主・義慶が死去すると、これに乗じて越中の一向一揆勢は能登国へ攻め込み畠山方と二宮で戦うが敗れた。
この頃盛永は一向一揆に与していたとみられ、この戦いの総大将を務めていたとみられる。
天正四年(1576年)、謙信が能登国の畠山氏を攻め、翌年その拠点七尾城を落とした。この戦いに盛永も参戦していたと思われ(『長家家譜』)、この頃には上杉家に属していたと思われる。
天正五年(1577年)十二月二十三日、『上杉家家中名字尽』に寺崎民部左衛門尉(盛永)の名が見える。
天正六年(1578年)三月十三日に謙信が死去すると、同年十一月織田信長方に付いた。
天正九年(1581年)三月、越中国の平定を進めていた佐々成政、神保長住が御馬揃の為に京へ赴いている隙に、上杉家臣で松倉城主河田長親が兵を率いて小出城を攻めた。
佐々成政は直ぐに引き返して撃退し、事なきを得たが、この時盛永や石黒成綱ら能登、越中の国侍が上杉方へ帰参する動きがあるとの情報が流れ、信長によって次々と誅殺された。
願海寺城は信長の側近で七尾城代であった菅屋長頼に攻められ、家臣の小野大学助、大貝采女等の内通者が出るなどして落城した。
寺崎盛永と子の喜六郎は七尾城から佐和山城へと護送され、尋問の末親子共に切腹させられたという(盛永は七尾城で切腹したという話も在る『上杉古文書』)。
その後願海寺城の名が史料から見えなくなることから、落城を以って廃城となったと思われる。